幸福

幸福とはなにか

幸福とはなにか、と自分に問いかけるとき、
幸福の定義とはなんだろうか、とぼくは思いなおす。

幸福とは、幸福感であり、感覚の領域のはなしである。
幸福感は、満足が得られたときの感覚である。

満足から幸福であり、幸福から満足ではない。
ぼくらは何らかの満足や充足を求めている。

なぜ求めるのかというと、自分にそれが欠けているからだ。
自分にないものを獲得し、空白を埋めようとする。

なぜなら、ぼくらは自分が虚空であることを恐れるからだ。
自分がいて、他人がいる。比較があり、競争がはじまる。

いわば、自分の生き残りのために、
ぼくらは恐れ(劣等感)から欲望(獲得)へと、たえず移動しつつ、
満足なり不安なり、情緒感覚という養分で自分を肥えさせる。

そして、幸福があるとき、不幸が存在するようになる。
満足が永続することはないため、そのとき、不満になる。

不満がふくれあがると不幸と感じるようになる。
不幸が長く続いて、積もり重なるとき、ぼくらは絶望する。

これらも感覚であり、自分という存在の養分となっているのだ。
ぼくらは、幸福からも、不幸からも、ともに養分を得て、
人生というドラマに没入するように、巧妙に目くらましをされている。

ところで、幸福とはなんだろうか。
もう結論は簡単だ。幸福を求めないことだ。

幸福であれ不幸であれ、満足であれ悲しみであれ、
すべての情緒感覚を、生への没入のためのトリックとして見て、
養分を与えないように、ただ見ることだ。

情緒感覚が生きていくためには、ぼくらはそれをリアルと見なし、
それと自分を結合させる必要がある。

不幸な人は、悲しみと自分を結合させており、
幸福な人は、満足感と自分を結合させている。

情緒感覚は実在ではない。現れては消えゆく一時的な虚像だ。
そのようなものを求めることがないとき、
情緒というものは存在しなくなり、こころは平和になる。

情緒を自分で統御できるようになるとき、
つぎは思考のトリックへと学習の階段をのぼる。

おなじように思考も自我の養分であり、
思考者ですら思考であるというトリックを見つけるようになる。

思考の罠は次々と見破られ、そのつど、思考は存在できなくなり、
純粋な意識のなかですべてが鎮まるとき、そこに真の虚空がある。

感覚やマインドの領域をとびこえた世界、
感覚やマインドによって隠されていた実在、
自我によって覆われていた真我が立ちあらわれて、

奪われることのない言葉をこえた幸福、
一にして全なるものが、
時間をこえた永遠の現在にて、
感覚ではない直接的な体験として、
ぼくでありぼくらであるひとつの生命に、
真の幸福がなんであるかを教えてくれるのだ。

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