治療

眠り

自己の想念をたえず感知している人は少ない。逆説的に言うと、われわれは眠りつづけている。そのため、外部の事象が自己に与える影響に対し無防備なのだ。より的確にいうと、眼を見開いておらず、不注意かつ無知であり、結果として内的にフォースを扱うすべを知ることができないのだ。

われわれは、往々にして、おのれの苦痛を他人や境遇のせいにしてしまう。「あの人がわたしをいじめる」「この惨事がわたしをだめにした」という具合にだ。目を覚まさないかぎり、生は被害の連続となり、われ知らず自己憐憫のナルシシズムに浸りきりとなり、精神の苦痛から解放される日は訪れぬままだ。

会社で上司から目の敵にされている。容赦のない罵詈雑言が日ごと胸に突き刺さり、輪をかけて、上司におもねる部下たちの思念が白眼視となりこちらへ向けられる。こうして集団社会で孤立し、対処方法にあわてふためく場合、周囲をとりまく低位の波動、悪意のフォースに精神をやられてしまう。

だが事実はちがうのだ。「おまえは使い物にならない」と上司が言う。次に来るのは、「わたしはダメな人間だ」という認識、あるいは「そうであるものか」という足下のおぼつかない多数派へのあがきである。なにが言いたいかというと、苦痛を与えているのは、上司の言葉でも同僚からの蔑視でもなく、自分の受け止め方であり、その失敗により、自分で自分をいじめていることに気がついてないということである。

忘れてはならない原理がある。原子の原子はエネルギーであり、すべてはエネルギーであり、想念はエネルギーの凝固した形態である。思考は物質である。ある人間から発せられる想念形態つまりフォースは、その操作器官である内的な眼により適切な処理を行うことができる。悪意のフォースをそのままわが身に受けてはならない。それは見られることで昇華される。目を見開いているかぎり、自身の内的な幸福に届くことはない。だから「気をつけて、目を覚ましていなさい」とキリストは言ったのである。

自分の想念を見張る、ということを瞑想で行う人もいるだろう。しかしインドの賢者が言うように「それはパートタイムの仕事ではない」のだ。たえず眉間の高みから、周囲のフォースの流れに注意し、われ知らず低位の波動に罹患することなく観察されねばならない。内的な眼で見られることは、その正体を暴かれることであり、理解の対象として愛情の眼差しに包まれるということである。だれかから、悪意にみちた想念を感知したのであれば、なにものも寄せつけない不動のハートで感知し、眉間の眼の自然作用として不純物が浄化されるさまを見、こちらからは相手の心理が痛々しいほど分かるため、ものいわぬ善意の祈りを相手に送ることで十分である。

眠りの必然としての無知、これがすべて苦痛の原因である。無知をもたらすのは見る眼の欠如にある。外的な事象のせいにしないこと、被害者面に安住しないこと、しっかりと眼を見開き、知性としてではなく、感覚として伝達された苦痛の感覚に焦点を当ててみよう。そこに苦痛を消したいとか、苦痛から逃れたいという、気づきにくい動機が混ざらないよう注意しよう。ただ見るだけなのだ。怖がる必要はない。あなたではない真の自己が、光の治癒をかくもみごとになすさまを、われわれは幸福な気持ちでただ目撃するだけである。

ブログランキング・にほんブログ村へ

コメント

  • コメント (0)

  • トラックバックは利用できません。

  1. この記事へのコメントはありません。

CAPTCHA


アーカイブ

PAGE TOP