瞑想

芸術のことば

われわれは、自分の生があまりに貧しいため、あたたかさを求め、絵画や彫像の居並ぶ美術館に足をはこんだり、詩人の言葉やパイプオルガンの響きにおのれを委ねてみたり、表面的な五感と、おのれに酔うため他人に抜きん出るための蘊蓄によって、中身のない自分を飾り立てるべく企てる。あるいは、そのようにして、一生つきまとう自分の空虚感から目を逸らし、時代の「教養人」として虚勢を試みる。

ちょうど、太陽が沈んだあとに行動を開始する女たちが、みな一様に名のある衣服や装身具、宝飾品のたぐいでおのれを隠蔽するも、中身のなさゆえ同臭の男に引っかかり、幸福という一夜の夢から、男に対する絶望の涙へと、剥がれ落ちた化粧のまま呆然となり、恒例となった自己憐憫に陥り、薬と整形に頼り、顔はミイラのように不潔になり、貞操や義心を疎んじて、よりみじめな男を見つけては金やモノを貢がし、また老いてきたことを認めたくないあまり、自分の子供と同年代の男を何とか金と性処理で捕まえてはおのれの自尊心を維持すべく試みるのと同じように、芸術をファッションないしは自己顕示、自己満足の道具へと貶め、いつまでたっても永遠なる美の恋人とは無縁のまま、暗い空虚の奈落をさまよいつづける風潮がいつの世にも蔓延しているのはいったいなぜなのか。

美とは瞑想にほかならない。つくられた美は、睡眠導入剤ならぬ、瞑想導入剤である。多少なりとも美に対して知性と情緒を介すことなく、無邪気であり、純粋であるとき、おのれの魂が美に呼応するのをマインドとハートが認識する。これが客観的な美の役割だ。真実の美は主観的に永遠なるものであり、言葉をこえた抱擁であり、いかなる制限や境界をも越えており、いわんや、だれかやなにかのためではなく、すべての人間をふくめ万物とともにただ在りつづける、一にしての全にほかならない。つくられたもの、ある動機と意図のなかで出現した希代の芸術作品がもの語っているのはいつもこうだ。

気づいたものは、ここに戻ってきなさい

構造上、外へ向けられた肉眼を通して芸術に触れたときの感覚、胸のうちにふくらむ喜びの感覚が、静かに、静かに、沈黙の美でおのれを包みゆくさま、その共有感と一体感、このときわれわれは目を閉じ、ハートの感覚を内なる目で見つづけるのだ。「ここに戻ってきなさい」という言葉は、約束であり、預言であった。はるかむかしの大王が、闘いと戦争に明け暮れて、強さをしめし、各地をのこりなく制圧し、敵を貫いてきた大剣を手にかかげつつ、祖国へ凱旋しては喝采を浴び、民とおのれに向かって言ったように、「すべては終わり、また終わらせたのはわれにしてわれこそが王」。戻ってきたものは王であり、すべての民を幸福にし、天の楽園を地へともたらした偉業によって、王の責務さえもみずから終わらせた人間ならぬなにかであり、間違いなくそれは愛によって生じた奇跡であり、みごとなまでの美である神にちがいない。王は名と地位を捨て、みずからを放棄して、神話のなかに消えたのである。

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コメント

  • コメント (2)

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    • 高瀬
    • 2018年 10月 24日

    いつも拝見しております。
    筆者の文章や議題はどのようにして浮かんでいますか?普段どのような本を読んでいらっしゃいますか?
    また、過去にヨガスタジオで瞑想をやっていましたが、ちゃんと瞑想ができているという実感がありませんでした。瞑想は初心者でも習得できますか?

    • Author
    • 2018年 10月 24日

    議題についてですが、元から決めることはありません。書くことはあふれています。わたしは最初に浮かんだアイデアを言語化するだけです。本は必要に応じてたまに読む程度でしょうか。いずれにせよ、個人的なことをあまり話す気はありません。この一連の記事においては、個人より、個人ではないものへの理解に近づいていきたいと思っています。

    瞑想についてですが、なんのための瞑想でしょうか。瞑想は、個人の立場からすると自殺への道です。わたしである自我はなくなり、あなたという空想はなくなります。いなくなります。

    最初から難しく考える必要はありませんが、瞑想が厳しいものであり、やり方によっては危険なものでもあることを強調しておきたいです。だれでも初心者です。ぼんやりすることなく、(内的に)目をみひらき、静かになれるよう、背筋を伸ばして結跏趺坐をくみ(のちのち役立ちますがやがて関係なくなります)、少しずつ、はじめは三分でも五分でもかまいません、やってみてください。恐怖感や危険性を感じたらやめてください。なにかあったら連絡をください。

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