瞑想

苦痛の終焉

幼少、人は感覚を証拠ないしは拠り所とし、肉体を自分と見なすようになる。思考が、わたしという人間(思考者)をでっち上げてしまうのだ。巧妙に。そして二元化がはじまる。「わたし」と「その他」が生のドラマを産み出してゆく。これがそもそも苦痛のはじまりであると言えよう。したがって、苦痛の終焉は、自己に対する無知の克服が条件となる。

経験が師となり物事への考察とアプローチを教えてくれる。それは文字通り苦闘であり、迷い多く、勝利をおさめる確証もない。不安と恐怖、そして摩擦と軋轢がたえずつきまとい、努力や挑戦が否応なしにひとつの美徳と見なされる時期がくる。

反面、その人間の知的・精神的なレベルに応じて人間の感受性というものの強弱も変わってくる。「神は克服できない試練を人に与えない」という決まり文句はその証左となろう。人間が進歩(そのようなものがあるとして)すればするほど、苦痛を感じる能力も高まる。「高度」と見なされる人間に精神の病をわずらう者が多いのはしたがってある段階までは仕方のないことである。

だが苦痛という感覚が、もはやその人間を「発達」させるために機能しうる有用な道具でありえなくなるとき、それは必ずしも必要ではなくなるのだ。苦痛のない人間はいないという意見がある。それが間違いであることを証明できる段階へ多くの人々が来ている。

大いなる孤立の時期が訪れるだろう。「わたし」が疑われはじめるのだ。どうやらわたしは肉体でも感覚でもないという経験を通常は瞑想を通して徐々に知ることとなる。頭部に波動を感じるようになり、接触はさらに激しく強く、内的に不断のものとなる。これが新たなる二元化であり、肉体・精神としての自分つまり「自我」と、接触先の「魂」が主導権を争いはじめる。後者が勝利するのは宿命づけられており、時間の問題でしかない。

結果として、苦痛を感じるための装置であった肉体、情緒体、メンタル体は魂の軍門に降る。苦痛を感じることはできなくなり、「わたし」という感覚も薄れ、やがて消滅に至る。魂が、人間として世の中で「生き、動き、存在」し、世に光を与える道具となる。

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