苦痛

苦痛の責任者

苦痛は、おのれの生き方が自己中心的なものであったことの結果でしかない。
したがって、欲求と満足を依然として希求しているかぎり、
苦痛のない生や、苦痛の克服を模索する資格がそもそもないのである。

厳しいだろうか。しかし現実である。
頭で考え、すぐに納得できるこうした容易な論理に目を背けることは、
痛みの欠如と、満足にもまた恵まれてこなかった証しであり、
たとえ学力やIQの高さを主張しようとも、知的でもなければ賢くもなく、
必然的に生の浮沈を、体験それ自体が否定されるに至るほど、繰り返し経験し続ける運命にあることを意味しているだけである。

われわれは現実を受け入れ、「わたしはしかじかの経験の結果として苦痛の時期にあるだけです」と謙虚に言わねばならないのであり、間違っても『可哀想な自分』的な、少女趣味丸出しの自己憐憫に入り浸ることや、『だれだれのせいで』的な、まと外れにもほどがある言い訳はいっさい許されないのである。

なぜなら、われわれは自ら苦痛の人生を選んだ
それは欲求や満足を求める人生を選んだときに同時にサインした契約である。

苦痛が嫌だというのであれば、欲求の人生を諦めるに足る経験値と、そこから生まれた智慧が必要である。
そこにはやつれた顔や精神疾患、自死に失敗した後遺症などが随伴するかもしれないが、
すべての道に対する絶望と諦念の結果として、体験の拒絶という大いなる鍵は得られたのである。

体験が拒絶されるとき、つまり『どこにも出て行こうとしない』とき、在るのは「わたし」そのものだけだ。
観察の対象になるのはもはや外になく、つねにあった「わたし」であり、あるいは「わたし」を見てきた『わたし』のみである。そこに鍵を差し込めばいい。帰り道への扉が開かれるだろう。

この段階が達成されると、外的世界との波動的な接触から徐々に方向転換し、外的世界に向けられていた欲求の萎縮が起こる。すべてが燃えるような熱性を抱く魂を満足させることができなくなる。そして、新しい世界、新しい存在状態、新しい認識状態へと方向転換するという困難な過程が始まる。内的な精妙な感応器官は、芽を出し始めたばかりの状態にすぎないため、圧倒的な喪失感に襲われ、暗闇を手探りで進み、そして熱意を抱く者の目的の不変性と不動性を極限まで試す霊的な苦闘と探究の期間が訪れる。 アリス・ベイリー(ホワイトマジック.p184)

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