エネルギー

言葉はない

錯雑として、暴力的なまでにわがままで、混沌と化している世界、このように言うとき、ぼくは目に映る客観的な世界のことではなく、目に見えぬフォースの世界のことを言っている。つまり一人ひとりが世界の縮図である内面の混乱、そのあらあらしさが、都会の都市にあってはなお、またなにがしかの集団のなか、たったひとりの人間でもよい、肉と物質の器を通し放たれたエネルギーであるフォースとその総和にあって、ぼくらはしじゅうそのなかで裸の生身をさらしているのだ。だから、精神が自己認識という高みの灯台からおのれを照らし力強く掴んでいないかぎり、周囲にざわめく暴走の波にたやすく飲まれ、精神の構造をむしばみ破壊されることになる。それで内的な暴徒と化すのだが、目を覚ましていないかぎり、それはわれ知らずしての『気分』という言葉でくくられて、よりいっそう、世の中の混乱の核を厚みのあるものにしてしまうのだ。被害者が加害者になりゆくさま、それは子供が大人になるのに似て無慈悲きわまりなく、存在はいまや純粋さをうしない荒みきっている。だから、一人ひとりというより、身に受けるすべてのフォースに対して、ぼくたちは強力に武装をしなければ、一箇の独立した存在として、ますます増長する負のフォースの渦に対し、なにも為すことがなく、世界のなかで役立たずのまま、崩壊の原因を内部と外部から傍観するよりほかになくなることになる。

それならどうすればいいのだろう。抵抗があるかもしれないが、ぼくはこれよりほかに有効な方法を知らない。つまり、瞑想を通して、魂と接触できるようにおのれの諸体を整え、頭部に降り下る魂のエネルギーを扱えるようになることがここでは求められている。エネルギーの世界にあって、結果でしかない外の世界で活動するのもよいのだが、それよりもっと重要で的をえた原因の世界に身を置くよう、まずは自分から、都会の喧噪や、人々から発せられる負のフォースに対処できるよう、内的活動を開始するのだ。まずはなによりそこからだ。自分を守れない人間が強さを示すことなどありはしないのだから。

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コメント

  • コメント (3)

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    • 高瀬
    • 2018年 10月 18日

    肉体と精神の苦痛が何らかの形で自分の身に襲ってきている時、恐ろしい程、別人化している様に感じます。普段ならどうもおもわない事ですら、例えば腹痛がかなりひどい時、同じ事をしたりされたりするだけで感情のストレスの度合いが変わります。今のは肉体的な例えですが…。環境が変わった時もそうで、今まで感じていた事と、全く別の視点で見えてくる。何もかもが、もはや錯覚なのかと思ってしまいます。

    • Author
    • 2018年 10月 18日

    錯覚でも、五感の表面的な反応があるかぎり、現実的に思えてしまいます。それで私たちは言うのです。「わたしはむかついている」と。これは次のような事実をあらわします。自分が、メンタル体に意識の焦点を置いていおらず、情緒体を通してあらわされる感情に焦点化しており、その結果として、「むかつく」という感覚と自分を結びつけている、という事実です。

    もし、態度がメンタル的であり、つまり知的であり、一つの対象として「むかついている感覚」をとらえるならば、わたしはそれを見ることになります。「わたし」と、「むかついている感覚」が引き離されます。「むかつく」などの情緒感覚はつねに一時的なもので、移り変わりが激しく、何かや誰か(環境のフォース)に、ひたすら左右されます。つまり、それはあなたではないのです。

    いったん、自分のものではないことが理解できると、次に問題となるのは、「むかつく感覚」への対処法です。最初はすごく難しいと思います。瞑想に習熟してくると、一般の人が接触できないエネルギーを扱い操作できるようになります。

    しかし、瞑想をしていない場合、「見る」ということが瞑想の始まりになるでしょう。最初は、知的な取り組みにならざるをえません。つまり、「なぜわたしはむかついているのか」という理由を自分に問いかけるのです。

    会社で嫌なことがあったからかもしれません。もっと理解を深めていきましょう。嫌なこととは、誰かに何かを言われたことだとします。相手への「むかつき」があります。ではなぜ、相手の言葉でわたしはむかついたのでしょうか。自分のプライドが傷つけられたからでしょうか。その言葉が事実で、それを認めてしまうと自分が何でもない惨めな存在になってしまうからでしょうか。周りの人から同じように見られてしまうことへの恐れからでしょうか。それが嫌でもがいているのでしょうか。そのもがきが「イライラ」となって自分を苦しめているのでしょうか。

    つねに自我は、「わたし」を弱めてしまうものにあらがいます。養分がなくなり消えてしまうといけないので、「むかつく」感覚からパワーを得たり、相手への怒りの思考や言葉、ときには暴力という肉体的行動によって、相手を打ち負かした自分、相手に打ち負かされた自分というドラマを展開し、そこからくる優越感や劣等感、喜びや悲しみといった情緒に浸ることで養分を得つづけ、この流れを繰り返して眠ったまま、自由のない、周囲のフォースにただ振り回されただけの人生を終えます。ですから、自分の「むかつき」の原因が分かるまで、正直に自分を探求します。

    できるだけ探ったあと、まだ否定的な感覚があるのなら、その感覚が鍵となりますのでとらえて見てみましょう。純粋に、ただ見るだけです。

    これは難しいです。知性を介して見てはいけません。ただ見るとき、「むかつく感覚」から逃れたいとか、自分の中から取り除きたいとか、何の介入もしようとしてはなりません。それをどけようと、抵抗してはいけません。もっとむかつきの感覚が大きくなり、知的にそれを見ているつもりが、イライラが激しくなりすぎて、たちまち、そちらの感覚のほうに自分を結びつけてしまうのです。

    「ただ見る」とは、文字通り見るだけです。そのときどうなるのでしょう。対象である感覚は、私たちが何も抵抗しないので、養分を失い、力尽き、消えてしまうのです。反対に言えば、むかつく感覚が持続されるためには、あなたがそれと結びつき一緒になることでエネルギーを注ぎこまなければならないのです。わたしたちが「むかついている」とき、それは結合しており、自分でむかつきに対して栄養分を与えているのです。

    このような理屈が、日々の実践において正しいものと自分で証明されたとき、問題はつねに自分であることが理解できます。問題は外ではなく、自分の内部における扱い方の問題でしかなかったことを知るのです。この技術を得たとき、こころは平和を取り戻すでしょう。そして、共感する能力が発達します。人々の苦しみが自分ごとのように感じられはじめます。このようにして、あなたは自分を助け強くしたあと、他人を助ける側へと立場を入れ替えるようになります。

    • 高瀬
    • 2018年 10月 18日

    丁寧に読みました。
    とても重要な事をいつも教えてくださりありがとうございます。
    まずはここに記載されている事を意識して過ごしてみます。

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