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質問:中道と三体


ほとんどの人間は中道まで辿り着きませんか? また、人間の三体は安らいでおり、の三体とは何ですか? 具体的に知りたいです。


中道は辿り着くものではありません。否定によって定義される感覚的なものであり、誰にとっても最初から存在しています。行く必要も、戻る必要もない道です。

感覚を調べてみましょうか。あなたが何かを楽しんでいるとき、快楽の方へとふりこは振れています。その振れ幅が生じたせいで、対極へと相応にふりこは戻ります。楽しみは続きません。楽しくないほうへ、以前より苦しいほうへと向かいます。もし快楽へ振れることがなかったなら、苦痛へ振れることもなかったでしょう。わたしたちは毎日このことを繰り返しています。

あなたの趣味が旅行だとしましょう。「ドイツは楽しかった。今度はギリシャへ行こう」と言います。すると、今度はお金をためるまでの期間、日々の労働や味気ない日常の繰り返しが、あなたに苦痛を、もしくは楽しくない時間を強要することになります。

どこへ行っても、望むものは得られず老いていくでしょう。運良くお金と時間に恵まれたとして、「わたしは全て行った。楽しくも苦しくもあった。見つけたものは不要になり、持ち帰ったものは倉庫へ行った。わたしの求めるものはなかったようだ。旅行には飽きた」と言うでしょう。

旅行は場所が変わるだけで、その先々に存在するのはあなたのままです。「旅行は飽きたから新しい趣味を見つけよう」と言うかもしれません。同じことです。外側で生じる人生の物語はあなたのままつづくだけでしょう。

この虚無感に気づく人は稀です。この無意味さを理解できる人は幸せです。ただし、われわれは楽しみたい。やりたいことにあふれている。欲求へ向けられたエネルギーが存続するまで、経験と、ふりこの運動は続くでしょう。

ありもしない幸福、歴史をひもとき、かつて見つかった一例すらない何か、幸福めいたひとときの満足にそれでもしがみつくでしょう。この経験が、対極の奈落にて否定の教訓をわれわれに授けるでしょう。

最終的に、人は快楽に出かけていくのをやめるでしょう。当然、苦痛を感じる能力も薄れます。あなたは何も求めません。出て行くことはおのずと否定されたのです。やがて、行動している肉体すら自分でないという視野へ至るでしょう。思考も、感覚も、運命も、真の自分とは関係がないという超越した、きわめて独特の守られた一なるものに臨済することでしょう。

たとえあなたに不幸がおきたとしても、苦痛を感じることはできません。どこへも出て行かなくなることで、情緒を感じるために必要であったアストラル体が養分を失い死滅するからです。こころの揺れ動きを許さない「中道」から、個人を取りまく困難に対してすべきことをしつつも、自分とは関係ないと感じる「中道」に休らいつづけるでしょう。もはやこのとき「中道」は人々が魂や真我と形容したものへの道であったことに気づくでしょう。

最後に、三体は、肉体・アストラル体・メンタル体です。われわれの段階では、魂の経験をつむための媒介装置と考えてよいでしょう。すべてはエネルギー体であり、われわれが神と呼ぶところの惑星ロゴスの構成質料であり、したがって三体を使用した魂の転生と経験によりすべての質料が「上げられ」たとき、惑星ロゴスは他の太陽系のすべての惑星が経験したように新たなる段階に進むでしょう。

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コメント

  • コメント (1)

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    • 高瀬由佳
    • 2018年 10月 09日

    ありがとうござます。

    ふりこの例え、とても分かりやすく納得できました。
    まだ 〝本当にそんな世界があるのか〟と半信半疑な自分もいる反面、もっと深く知りたい、その世界を少しでも感じたいという想いも強くあるため、拝読させて頂きます。

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