むかしの話

離別

さようならを告げよう。
やさしくなごやかな歌、天衣無縫の国、明るく快活な色彩、ゆかしい手のひらに包まれた時代。たくましく、高潔であったきみの均整をゆがめ、あらあらしい、燃えたぎる別の人格へと変えてしまった原因について、ぼくは責任を放棄できない。努力はしたが、結果がすべてというのであれば、遠くから、握り潰した手のひらに対して、ぼくにできることを行うつもりだ。

さようならを告げよう。
互いに別人となった。無数の星が、ぼくらに祝祭の光を放ちつづけるように、きみに対する感謝のほほえみが消えることはあるまい。いまいる場所にぼくはいるだろう。きみを連れて帰ることはできない。きみを引っ張ることも、恣意的に引き上げることも許されていない。ぼくは都会の真ん中で内的な孤独に居をさだめている。きみは病院の檻のなかで暴れているのか、虎のように。荒れ果てた生に悩み、牙と牙をかち合わせ、怖ろしい勢いで音をならし、苦しみに耐え続けているのか。

さようならを告げよう。
離別は、かならずしも肉体のそれである必要はないが、ぼくらの場合はそうなるだろう。とても心配している。人間が変わりゆくさまは何度となく見てきたつもりだが、そのたびに、心臓の筋がちぎれ、鼓動があばれ出し、胸がつんざかれるような痛みにとらわれる。いま、ぼくの声はとどかない。ついこのあいだ、きみと再会したとき、両目の憎しみが白眼のうちにまで溢れているのをぼくは見た。それは破壊者だけがつねに持ちうる力だった。しかし弱々しく、悲しげで、見放された幼子のように小さなものに見えた。ぼくらは立ち止まり、すれ違い、言葉はなかった。しかし顔がことばだった。そしてことばはしわがれていた。

さようならを告げよう。
かつてのきみは、強いられるものに抗った。教科書をひきちぎり、床になげつけ、切れ端を足で踏みにじった。きみは学問をやらなかった。ぼくもやらなかった。「将来に不安はないか」ときみは聞いてきたことがある。そんなことはどうでもよかった。「学問などは短期間で身につけうる程度のものだ。しかし、優れた精神はそうではない。きみは恵まれているのだ、その聡明でやさしいこころの声にぼくらは幾度となく助けられてきたことを忘れないでほしい」。そう答えると、きみはこころの底からありがとうと言った。

さようならを告げよう。
正直なはなし、ぼくはきみが怖ろしい。姿かたちは変わらずとも、なかに住まう者が変わっている。その目つき、うなり声、虫どもの騒擾が、きみを内部から蝕んだのだ。自分のことは考えず、天の宮居に住まう精霊のように、傷ついたもの、助けを求めるものに祈りの歌をうたっていた時代は輝きを失っている。きみのなかにいる、そのものが何なのか、ぼくは知っている。きみは気づいていない。変わりゆくきみの姿を見るのは辛いことだ。しかし、彼を信じないよう、彼を自分だと思わないよう、ぼくは遠くから、きみの内部の邪悪なものにむかって、いわば闘いを挑むつもりでいる。きみを苦痛から解放させること、もとのやさしい天使に愛の息吹を与えること、しかしそれまでは、きみとこの世で二度とふたたび相まみえることがないことを誓う。

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