瞑想

魂の鎖国

苦痛がある。第三の目がそれを見る。苦痛はわたしに接触できなくなる。外部のもの、わたしとは無関係のものとして苦痛は見られる。結合の余地がないため、苦痛という形態は養分をうしない瞬時に死滅にいたる。依然としてわたしのうちにあるのは魂の感覚であり幸福である。

この段階は手の届かないものではない。薬物的な妄想でもなければ、一部の人にのみ許された特権でもない。瞑想の初心者が習得する「整列」の結果でしかない。これが初期段階であることを強調しておきたい。

魂が諸体を多かれ少なかれ掌握しているとき、個人は想念や情緒に関心をもたなくなる。「孤立した統一」にはほど遠いものの、とほうもない隔絶感がある。なぜなら、意識とマインドは魂の領地に安住しており、その土地に住まうものに固有の至福という宝物庫のなかにあり、そこから出て行こうという意志を持ちえないからである。

もはや彼というより目である。生き、動き、活動する人間は魂のエネルギーで満ちみちている。家にいる人が窓から台風を眺めるように、彼は毒気のある周囲のフォースを内なる窓から見る。そして異国の由来とみなす。侮蔑や差別はない。分離的な目ではなく、透徹した知的な目が力として毒気に貫通しており、おどろくばかり、慈悲に満ちている。それは異国のものがわれを思い起こし、父からの勘当という錯覚に気づき、正しい家路につくまで見守る愛の眼差しである。

この段階に至るまで失敗は幾度となくある。なぜなら、彼にはみずからのあずかり知らぬ弱点があるからである。この弱点が侵入の経路となる。そして、無意識に負のフォースに飲み込まれ、一般の人間に近しい状態へと波動を落とす。ふたたび盲人となるものの、周囲の波動と同調しつづけるほど馬鹿はできなくなっている。言葉にあらわしえぬ、あの純粋さへの記憶と渇望が強く、帰りたい気持ちに抗えず、あえて苦痛を味わいにいく。どん底の苦痛を精神と五感で味わい、傷つき、現実感に打ちのめされそうになるものの、彼は一連のドラマが錯覚であることをすでに知っている。その苛烈な苦痛を利用して、闇のなかに光を見いだすテクニックを用いるのである。帰り道が照らしだされる。彼は道と光を見るだけで、かつての宮殿へ帰還したことを確認するのである。

訓練されたオカルティストにあってはこのようなことは起きえない。すべてのグラマーが克服されているからである。いかなる負のフォースも彼へ浸透することはなく、目くらましによって彼岸の領地へ連れ去られることもなく、ありていにいえば、自我は飢餓におちいる。

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