おとぎ話

ある老夫婦の会話

山の藁屋に住む老婆が、扉の外で、椅子に腰かけている。
孫娘は、花を摘みに、たくさんの友達がいる谷へとおりてゆく。
老婆はいった。

「しばしのお別れだ。
あの娘は、谷底が荒れ地であることを知らないようだ。
あすこにあるのは花ではなく、無数のされこうべだけなのに」

もうひとつの椅子には老人が座っていた。
遙かなる目で、喜びにはずむ娘の足取りをおっていた。

「物心がつくということは無慈悲なことだ。
ついこのあいだまで、あの娘は谷底の暗さに怯えておった。
だがいまや、荒れ地を見ても、一面の花畑にしか見えないらしい。
されこうべを見ても、生きている人間の友達にしか見えないらしい。
あすこには、帰り道をなくした亡霊たちがたくさんいる、なんて危険なことか」

老婆も老人も、足腰は衰えている。
谷底まで、若い娘を追いかけることはできないのだ。

「ジジイよ、安心するがよい」老婆はいった。
「娘は悲しみの谷へと降りてゆく。自分の意志で。
だが、わしらとてそうではなかったか。
あすこで散々苦しんで、魂の若々しさは失われ、
そんなとき、おてんとさまが迎えにきてくれた、
暗い谷底を照らしてくれた」

老人は懐かしそうにいった。
「ババアよ、そうであったな、
おてんとさまの光で帰りの道が見えたとき、
わしらは歓喜の涙をながしたものじゃった。
だが周りのものらは見えていなかった。
光に向かって指をさし、みんな一緒に帰ろうとわしらは懇願したが、
道などどこにあるものかと馬鹿者扱いされて、
石を投げられ、ずいぶんと嗤われたものだった。
知らないところへ行くことを、
知らないものを見ることを、
わしらの友は恐れておった」

「こころやさしきジジイよ、あやつらもじきに戻ってくる。
あのころわしらは一緒になって、この喜びの谷をのぼってきた。
なんども谷底へ落ちそうになったが、
おてんとさまが、そのつど、わしらを引っ張り上げてくれた。
のぼっていると思っていたが、本当は、導かれていただけだったのだ」

「ああ、わしらの友もいずれこの藁屋へ帰ってくる」老人はいった。
「用意をしようかババアよ、わしらの魂も歳を取り過ぎた。
この藁屋とてひとときの宿でしかない。寝床をととのえて、出立するかの。
娘が帰ってくるのは当分先になるだろう。
そのとき藁屋で迎えてくれる友のためにも、
さあ、ここを立ち、腰をあげてもう一のぼりだ」

老いたふたつのたましいは死んだ。むしろ壊れた。
すると永遠の若者である女と男があらわれた。
そしてふたりは手をとりあい、藁屋のさきの、
さらに厳しく険しい道、最後の頂きが見える、
山のいばら道へと消えていった。

「だがおまえ、なぜこの苦悩の谷に引き返すのか? なぜ喜びの谷に登らないのか、あらゆる歓喜のはじめであり、もとである、あの喜びの山に?」ダンテ(神曲)




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コメント

  • コメント (1)

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    • 高瀬
    • 2018年 11月 05日

    こんばんは。投稿されているかを確認する事が毎日の楽しみです。今日はとある番組で三木清さんの人生論ノートについて解説がありました。
    人生論ノートに綴られている言葉を抜粋してみました。↓
    『幸福は人格である。人が外套を脱ぎすてるように
    いつでも気楽にほかの幸福は脱ぎすてることのできる者が最も幸福な人である。しかし真の幸福は彼はこれを捨て去らないし、捨て去ることもできない。
    この幸福をもって彼はあらゆる困難と闘うのである。
    幸福を武器として闘う者のみが斃れてもなお幸福である』
    Authorさんのご意見をお聞かせ頂きたいです。
    これまで多くのことを記されていますが、Authorさんが思う、『幸福とは何か』というテーマを読みたいです。

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