質問

いくつかの質問

比較的無意味な質問の場合、全てに返信できない。言えることは、それは個人の質問であり、その手の質問はキリがない。解決しては出てくる問題という遊びに何の解決性があるだろうか。真に死活問題であるのなら、瞑想に打ち込んでいるだろう。しかもそれは喜びの道である。現状、質問の背後の不安・恐怖を現実的に思うことで、実際は自我として遊んでいる。以前の女性の質問で共に考えたように、存在と共にただ在ることが本質であり、こういう文章を読むより瞑想すべきである。アリス・ベイリーの「A Treatise on Cosmic Fire」を知的に解釈できるような人でさえ、時に自分が個人として読んでることを忘れている。これが何を意味しているかというと、個人として在ることによる内的なフォース同士の衝突を知覚できていないということかもしれない。たとえば「私」「俺」などという感覚がまだあるだろうか。それであれば速やかに合一のプロセスを通過すべきである。すべての指導、テクニックを捨て去り、自分が知っているその存在と共にただ在るべきである。文章を読んだり、師と思われる人間につくのに遊び疲れたのなら、そもそも必要がないのだから、いま現在ある「私」あるいはその「存在」の感覚とともに在るべきである。第四イニシエーションにて、感覚に由来する限定を認めて魂すら破壊されるが、われわれがヨーガ・合一と呼んでいるものについていえば魂との合一でしかない。先送りにしようとするものを離れて見、無視して、存在に集中すべきである。個人的な苦痛の質問にはもう答えてきたと思う。バランス感覚と人々の常識の把握は重要だが、彼らに迷惑をかけることなく、没頭するしか道はない。あるいは、道はないという状態に陥るまで個人の弱点を通しつつ、認識したまま遊ぶべきかもしれない。そしてそれは苦しみの道である。質問をするのは簡単であり、質問の仕方も様々であるが、真に合一の可能性を秘めている人は容易に質問しない。何の世界でも頼る癖というものは弱くするだけであり、その弱さの回復は、彼・彼女の性質上困難な場合が多い。そういう人だった、でたいていは終わりになる。真実は観念の世界と異なり、それらと関係がない。新しい新鮮な、観念で汚されていない真っさらな存在とただ在るべきである。質問の、ラマナ・マハリシの「わたしは誰か」や、ニサルガダッタ・マハラジの「わたしは在る」は導入的なものであり、真に合一の段階ではそれは事実ではない。

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