エネルギー・波動

それはなぜか

前回の記事をより具体的にしたい。なぜなら、秘教徒の道は性質上、最も意識的かつ実際的な道であると思うからである。それは意識的でなければ道にすらならない。絶えざる知覚、絶えざる接触、そして絶えざる働きかけの道であり、甘さを伴う客観的なマインドの粗雑な道ではなく、厳しい主観的な意志と目的の実践的な行使の精妙な道だからである。教材は絶えず目の前にある。したがって「目」の道である。見るということは、対象となる領域に意識的であるということであり、オカルト的に目と意識は、低位の弟子においては同意語あるいは相互依存の関係にある。神秘家と聖者の道は、理想的な概念や観念を足がかりとする、相対的に無意識な偶然への懇願めいた働きかけから少なくとも始まるが、秘教徒とオカルティストの道は、最初から内界のエネルギーとフォースを扱う意識的な必然の探究である。それは遥かに知的な性質を持つが、それは秘教徒が、原理に基づかない質料を「あがなう」にあたって、明確に第三様相つまり知的な原理に基づく質料を、高位の二つのエネルギーの導き手として使用するからである。しかしそれは、理論の道ではない。理論は低位マインドの産物である。オカルトの実践は高位マインドの感応力を接触の媒介として要求するものである。

弟子が秘教徒の道を辿るならば、世に出回っている一般的なアプローチより、はるかに険しく、厳しく、集中的なものになるだろう。それは、より確固たる目的意識の中で、はるかに意識的、はるかに意志的なものになるだろう。悟りや真我実現は人間の理想であり観念(形態質料の変異)であり未来である。エネルギーとフォースは現実であり形態質料の識別であり現在である。この場合、弟子において、「分からない」という言葉は使用されない。分からない原因が突き止められ、突き止められた事実を足がかりにさらなる知識領域に踏み込む。また、この場合の弟子において、「できない」という言葉も使用されない。できない原因もまた沈黙の中で突き止められ、妨害している要因とその漸進的な破壊に伴い、できるための必要条件の知覚へと接近するだけだからである。したがって、真のイニシエートの特徴である全体のための全知と全能という能力への扉は、潜在的に秘教徒である第一光線の弟子にとっては「意志の暴力によってこじ開けられる」ことになる。

この暴力は自我意志のことを指していない。人間は意志を所有するが、秘教徒は意志を行使する。言い換えると、フォースの犠牲者になるか、エネルギーの知的媒介になるかの違いである。これが大きな違いであることが理解されるだろう。それとともに、我々におけるあらゆる実践の非本質性が認識されるはずである。すべての顕教と世に差し出されている教えは、真の密教つまり秘教が理解できない場合の、人間による人間のための人間にやさしい教えである。それは結果を扱い、三界の人間質料に満足感を与えるものである。本質的である場合、扱われるのは原因であり、満たされるのは魂であり後に霊である。したがって、秘教徒が絶えず問いかけるのは、「私は誰か」ではなく「それはなぜか」である。答えるのは人間の知性ではない。マインドが知覚器官として認識されたときのみ、真の知性である直観は人間の肉体脳における現実となる。したがって、出来事、事象、環境、状況、体験、問題は、秘教徒にとって偶然とは決してみなされず、突き止められるべき意味があるものとして、背後の活動するフォースへ彼の目を開かせるきっかけになるだけである。これが弟子をさらなる知覚領域へと導くのである。この事実は必然的に偉大なる意識領域を副次的に包含するものである。以上は難解な議題であるが、大いなる可能性にみちた意義深く興味深い主題でもあるはずである。

カレンダー

2022年12月
 1234
567891011
12131415161718
19202122232425
262728293031 
PAGE TOP