意志

わたしへの令和

静かで平和な意識状態がある。何によっても影響を受けることはなく、ただ愛と美が広がっている。

質問や悩み事が書いてある。しかし彼、あるいは彼女という個人の背後の生命は、それらすべての錯覚から自由であり、個人意識を強いられている魂の叫びに対し、いつであれ愛と美の投射によって呼びかけている。それを拒んでいるのは本人であることに気付くだろうか。

目と耳をなくした個人。物語はそこからはじまる。だが実在ならざる錯覚の世界で、まだ経験が必要だろうか。悩み事は個人のものであり、真のあなたとは関係のない生涯に入り込み、主役となる必要はない。経験は続くだろう。そして、いつか劇にも飽きるだろう。遊び、そして疲れ果てる。知性が役割を果たす。個人であることの価値が彼において徐々に無くなる。必要のない苦痛を背負い込むより、欲求の世界から距離を見出し、内なる平和を望むようになる。上からの令であるかのごとく。

悲しみの自我よ。肉体ではなく、あなたという錯覚が剥ぎ取られ、死ぬのを恐れる自我よ。死にたくないがため、おのれを痛めつけてまで生き延びようとする自我よ。本当のあなたは男でも女でも、悪人でも善人でも、強者でも弱者でもない。もはや世界があなたの興味と必要性から外れたのであれば、いつであれ、また誰に対してであれ、いま、すぐ内に広がる無限の至福意識に立ち返ることができる。ただし、目の向きを変えるのであれば。ただし、わたしという意識に向きを変えてくれるのであれば。

そして、本当のわたしを見てくれない永遠の反逆者である自我よ。あなたの意識は地獄である。そこに愛は届かない。至る所で人々と自我たちが世に嘆いている。開かれた意識のなかでのみ、われわれは世界の意味と意義を知ることができ、地獄にいるあいだは、それがあなたにおいては現実的なままとなる。

忘れる、分からなくなるという意識。本当の自分、唯一なる実在、生命である自己を、人は忘れ、分からなくなる肉の意識に苦しみ、個人として、多くの心と、心たちが荒んでいる。世の中はさながら地獄絵図だが、どの意識、どの角度から見るかにもよる。だから他人や社会に目を向けるより、どこへ行こうが付いてくる「わたし」を見る時、案外、美しい世界の意味を理解できるかもしれない。錯覚は性質上、永続しつづけることはできず、真の和は実在の意志であり、永遠の至上命令である。

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