一般生活

スマホ依存症

暇さえあればスマホ。このような兄弟が、仮に弟子であるならば、道において前途多難な障害を築くことになる。スマホを手に取ろうとする時、その衝動、腕や手を動かしたフォースを見る事はできないだろうか。そのような自動人形であってはならない。全てのエネルギーが健全であるためには、統御されていない無意識のフォースがあってはならないのである。

だから彼女には次のように提案しよう。人気のない山中、別荘かコテージを三泊くらい借りて、一人ただ孤独になってみよと。娯楽にお金を使うぐらいなら、自我を、私を探求するために、一人になるべくお金を使う方が良い。スマホに手を伸ばすエネルギーを使い、山を歩いてみたり、川を眺めてみたり、あるいは草木、花、星を観察してみたりと、自然の中で我に気づきつつ一日を完全に生きてみよと。多くの学びに感謝するだろう。これこそが生であったかと驚くであろう。これまでの都会の狭苦しい人生が何だったのかと思わずにはいられないだろう。

これが出来ない彼には次のように提案しよう。モノのない部屋、知る者のいない公園、座る事や歩く事のできる川沿いの土手、とにかくタダで一人になれる場所を選び、そこにただ在るようにと。半日で良い。あるいは仕事終わりの夕方から夜中まででも良い。おのれを観察するか、周囲を観察するかしかできない場所に、ただ独り存在してみよと。そして自らに生じるフォース、衝動を見るのである。沸き起こる思考、記憶の中の映像、そこから派生する情緒、周囲を気にする自分、これらを、ただ見よと。

我々は行為者ではない。観察する者である。四六時中、何の批判も、何の評価も、何の連続派生もなく、内に生じたものを見るのである。それが何なのか、なぜ起こるのか、興味深いから見るのである。これを真に出来るならば、瞑想しなくて良い。これが瞑想である。これが私は誰かである。これが真我探究である。

だから、内観に相応しくない時間はない。一日中の瞑想とは、このような姿勢と態度で一瞬一瞬を見ることである。習慣に動かされることなかれ。起きたらスマホ。起きたらコーヒー。勝手に指はパソコンの電源。このような一片の知恵もない生き方で気づけば老人という毎回の生涯のパターンに陥ることなかれ。一つ前の生涯を君は思い出せないのか。また失敗するのか。生まれくる前に立てた誓いをもう忘れたのか!

老人でも、ここに気づけば今すぐ真我探究である。そもそも我々は魂の老人である。だから真我以外は全て苦痛である。一切皆苦なのである。おのれを見よ。マインドが映し出す全ての幻影というサタンよ去れ。惑わしに生きるは無知無明である。たった今、ここにいる我、この私をただ見よ。ここからは一人ひとりのオリジナルの道である。方式や法則はない。毎瞬が気づきであり、驚異であり、発見にほかならない。このような生き方を選ぶ弟子の何と少なきことか。しかし君はおそらく例外である。君はここをくぐり抜ける者であるに違いない。そのようにしか私には思えない。立ち上がり、一人になるのである。

ラマナ・マハリシ「私は誰か」のまとめ前のページ

求めること次のページ

コメント

  • コメント (0)

  • トラックバックは利用できません。

  1. この記事へのコメントはありません。

CAPTCHA


カレンダー

2022年12月
 1234
567891011
12131415161718
19202122232425
262728293031 
PAGE TOP