存在

ラマナ・マハリシ「私は誰か」のまとめ

人間は騒乱状態にある。内的な騒擾が、むしろ人間を、自我を生かしている。そこで、全ての大元である「私」という感覚を見るようラマナ・マハリシは言った。「私」が思考である場合、見られたら感覚は消える。最初のうち、「私」はほとんどこの思考である。思考が、肉体や五感を証拠に、思考をする「者」がいるという決めつけを行い、思考者を考えついたのである。それが、我々の言う「俺」とか「私」というものである。ここでは、これらの私を「個人的私」と呼ぶことにする。

「個人的私」がまさに騒乱の原因である。しかし「私は誰か」により見られ続けることで、やがて「個人的私」は黙る。全く静かになる。しかしそこには、見ている者がまだ存在する。それをここでは「観察者」と呼ぶことにする(これも本質的に想念でしかない)。「観察者」は、「個人的私」がいない限り、私という感覚とともにただ在る。この「観察者」と共に在ること、つまりこの段階における私でただ在り続けること、この自然な集中状態が瞑想である。それでも、定期的に最初は「個人的私」が姿を現し、思考が様々なイメージや記憶や考えといった形態を纏い、「個人的私」と結合することで架空の「俺」や「私」といった自我を拡大しようとするため、完全な「観察者」への集中が確立されるまでは、思考の変異は統御され続けねばならない。

「観察者」への集中が定まり、思考や思考の変異も生じなくなったとき、やがて、観照する者と観照される者を含む「観照者」という分離した私意識は消え去る。このときはじめて合一が起きる。それは最初は数秒であるかもしれないが、意識拡張を体験したならそれで良い。あとは、その覚醒を二度と途切れない完全なものにすることである。ここに数十年を費やす弟子もいる。

合一が切断されると、また「個人的私」が主張をはじめ、物質や人間の現象世界へ引きずり落とそうとしてくる。弟子の務めは、このような下降の誘惑をあらゆる瞬間において許さないことである。つまり24時間の瞑想である。ここをどれだけ真剣にやれるかで、覚醒が完全なものとして定まるまでの期間が変わることになるが、この段階の弟子が個人として急いだり、霊的な野心に取り憑かれたりすることはもはやない。ただ運命の問題である。彼は他の人間と変わらず生活し、その中でたえず「観察者」である私とともにただ在る。必要な時だけ低位マインドつまり思考を使う。必要でなくなったらまた私としてただ在る。とても自然な状態である。完全なリラックスであり、何の主張も好き嫌いもそこにはなく、満たされた集中がただあるだけである。やがて運命が熟したとき、敷居の住者、あるいはヴァーサナーの完全な破壊が起こり、人間は変容する。我々が自分と見なし、それを生き甲斐としてきた個人、「私」は死んだのである。それはしかし、真我の中で蘇りを得たのである。

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