瞑想

ラマナ・マハルシの「私は誰か」

ラマナ・マハルシの瞑想、真我探究について。もし効果という言葉を使用することが可能ならば、「私は誰か」は効果として絶大である。しかし安易に勧めることはできない。このテクニックが可能になるのは、メンタル体の統御における多少の慣れ、それから何より、他の諸体がほぼ完璧に静まっていることが前提だからである。秘教的には2.5段階前後の弟子であれば素直に有効であると思うが、アストラル体が戦場である多くの弟子にとっては飛び級になってしまう。

この探究は、自我でありながら、また「私」という感覚が最終障害であることを認識しながら、魂と共同で行われる。魂のエネルギーが、定期的に立ち現れる「私」という感覚に照射される。「私は誰か」「それを言っているのは誰か」「そう考えているのは誰か」、いずれにせよ「私」へ固定される。それは、何の想念もなくただ魂の位置から見られる。そして消え去る。そして存在への自然な集中が生じる。しばらくすると、また想念が立ち現れる。つまり「私」が活動をはじめる。だから「私は誰か」と問う。慣れている場合は、ただ直接「私」を見る。すると想念なしに、つまりどのような動機もなしに見るならば、すぐに消える。あえて存在する動機は、「私」が徹底して見られたことで、それが唯一の騒乱の源であり、障害はそれしかないことが明らかで、且つ、「私」の覆いを通す限り文字通り全てが錯覚と知られたから、というものである。今、何にも邪魔されず対象をはっきり見ることができる。だからそこには、魂と「私」しかいない。

何度も繰り返していると、自我が、つまり「私」が、半泣きのようになる。養分不足で死にそうであり、「私は誰か」と問われ見られることにひどく怯え、弱体化している。もはや圧倒的に魂が優勢であり、「私」は見られた瞬間に逃亡である。だからしばらく「私」は立ち現れない。そのとき、瞑想者はただ在る。魂としてただ存在する。静かであるかぎり、形態を纏うマインドの動きは瞬時に知覚され、見られ、死滅させられる。しかし、ヴァーサナーあるかぎり、やがて思考は現れるだろう。思考あるところに「私」あり。したがってまた、「それを考えているのは誰か」と問われる。自我は瀕死なので、すぐに沈没する。また平和が訪れる。静かである。豊かである。魂である。そして存在である。……

これが、ラマナ・マハリシが教えた瞑想の概説である。どのような道を辿ろうが、瞑想は「私」へ行き着く。それは、真我実現や、個人の霊的野心といった動機なしに見られるときのみ、純粋に消え去る。普通、このような動機なしに見ることはできない。なぜなら、アストラル体が活発だからである。グラマーが活発だからである。アストラル性質は死滅している必要がある。この探究においては、マインドと魂との一騎打ちが、他に邪魔されることなく行われる必要がある。だから、「私は誰か」が続く人、それが実践で意味を為す人は少ない。肉体としての個人の悟りたい願望や、アストラル的な霊的欲求といったものが乗り越えられているからこそ、マインドと魂が直接向かい合うことができるのである。

この事を解説してある本も話も聞いたことがないため書いた。また、用意が出来ていないのに、ラマナ・マハリシの言葉をそのまま利己的に解釈し、個人の霊的野望として単に脳細胞を酷使しているだけの瞑想を多く見てきた。「私は誰か」が通用するのは一部の鍛えられた弟子、魂を知る瞑想の熟練者である。それまでに我々は習得すべきことがある。それはとりもなおさず、アストラル界の征服である。アリス・ベイリーの本が助けになるだろう。

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コメント

  • コメント (7)

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    • カエル
    • 2022年 11月 14日 8:04pm

    いつも有益な記事を挙げていただきありがとうございます。

    さて

    >思考あるところに「私」あり。

    この言葉についてもう少し説明をいただけますでしょうか。

    経験上、自分の意志とは無関係に思考が生じます。ふと、とっさに、何の気なしに、意に反して、このように思考は生じます。
    このようなときに、「私」ありとは、どのような意味なのか、理解したいと思います。

      • Author
      • 2022年 11月 14日 9:29pm

      こんばんは。

      「私」は常にあります。思考も常にあります。そのため、我々の知っている世界や自分が存在してます。

      しかし、マハリシの言う真我探究を行うならば、一切の錯覚の原因である「私」が弱まり、一時的に大人しくなります。でもしばらくすると、「自分の意志とは無関係に」思考が生じます。思考は、「私」という感覚から独立していません。必ず、その思考を抱いている「私」がいます。つまり、精神活動・心・自我といったものの総称あるいは別名である「私」が存在を主張しはじめたことが理解されます。

      その思考が生じたとき、「これを考えているのは誰か」と問えば、「私」となるでしょう。しかし、真に静かなとき、無理矢理にでも「私」という感覚を見つけようとしても無理です(「私」と頭で言うことすらできないでしょう)。そこに「私」はないのです。なぜなら、それは思考にすぎないからです。思考のないところに「私」はいないのです。

      こうして、「私」つまり思考が静まっている時のみ、魂(存在・真我)への自然な集中が生じます。結局、この集中が正常な状態なのですが、思考が「私」という思考者をイメージしてそれを自分と見なしているため、定期的にそれが偽我として自己を主張し、真我への自然な集中を絶えず邪魔しています。

    • カエル
    • 2022年 11月 14日 11:56pm

    Author様

    いつもありがとうございます。

    >思考は、「私」という感覚から独立していません。必ず、その思考を抱いている「私」がいます。

    以前、どのような想念も「私」という想念の後に現れるという、聖者の話を読んだ覚えがあります。
    ところが私は、想念や思考が湧いてきた時を観察しても、知覚した想念の前に「私」という想念や思考が現れていたという経験をしたことがありません。
    例えば「熱い」との思考ないし想念が湧いたならば「熱い」が、「お腹すいた」なら「お腹すいた」と知覚認識されます。
    ただし「俺だったらどうしたかな?」「俺は駄目な奴だ」などといったような、思考そのものの最初に「俺」や「自分」などの第一人称が含まれた場合は除きます。

    ここでAuthor様がおっしゃられる
    >思考は、「私」という感覚から独立していません。必ず、その思考を抱いている「私」がいます。
    という「私」とは正確に言えば何を指しているのでしょうか?
    仮に単なる思考や想念ならば、なぜ私にはその「私」を知覚することができないのでしょうか?

    Author様の文意を理解するためにもご教授いただければ幸いです。

      • Author
      • 2022年 11月 15日 12:20am

      考え方を教えて頂き、こちらこそありがとうございます。

      >想念や思考が湧いてきた時を観察しても、知覚した想念の前に「私」という想念や思考が現れていたという経験をしたことがありません。

      それは無意識だからです。普通は皆そうです。したがって知覚する必要はないです。ただ、知的に考えて、「熱い」や「お腹がすいた」の前に体験者がいないことはありえません。それは難しい意味ではなく、ただそれを体験したのが「私」だという意味です。

      >「私」とは正確に言えば何を指しているのでしょうか?

      難しくあえて説明しません。カエルさんが自分の事を「俺」と呼ぶなら、その「俺」です。「俺」という感覚です。その正体が見られたことがないため、「俺とは何なのか」と真我探究においては問いかけます。諸体、特にアストラル体が浄化されていない場合、見ることはできないと思います。アストラル的な感情すらただ見ることはできません。したがって、段階として、アストラル体の浄化がメンタル体の統御より先でなければなりません。

      >仮に単なる思考や想念ならば、なぜ私にはその「私」を知覚することができないのでしょうか?

      上記の理由の通り、諸体が騒音状態なのです。肉体の欲求、アストラル体の感情や欲望、メンタル体の想念や記憶、イメージなどに加え、周囲を漂うそれらのフォースにも無意識に感染しているため、ごった混ぜになっている状態なのです。静かなとき、ただ「私」を見て、即座に魂と融合させることができるはずです。従って、当面の目標は肉体とアストラル体の浄化だと思います。

      分からないこと、納得がいかないことがあれば教えてください。

    • カエル
    • 2022年 11月 15日 1:58am

    Author様

    ご回答ありがとうございます。
    つまるところ

    >諸体が騒音状態

    に行きつくのだとは思います。
    ただ

    >ただそれを体験したのが「私」だという意味です。

    このような回答を頂いておりますので、もしかしたら的を外しているのかもしれませんが、「私」とは想念・思考という理解でいいのでしょうか? 
    もしそうであるならば、私がよく理解できないのは、「私」も思考ならば、諸体が騒音状態にもかかわらず「熱い」(という思考)は知覚認識できるのに、なぜ「私」(という思考)は知覚認識できないのでしょうか?

    ここで前提を明確にしておきたいと思います。
    私が想定しているモデルは、まず「私」という思考が現れ、その思考に続き「熱い」や「お腹がすいた」という思考が継続するという理解です。このような理解ゆえ、上記のような疑問が生じます。
    そもそもここが勘違いでしょうか?
    例えば、「熱い」という思考が生じた。その後後付けで、「熱がっている誰かがいるはずだ」「それは私だ」という無意識の思考が(経験上このような認識はしたことがないので)連鎖し、そこに「私」というものがイメージとして感覚とともに現れるなど。

    ところでここからは余談ですが、改めて「俺」ないし「私」という感覚を探ってみたところ、とても幽かでわかりにくい、はっきりしないものですね。
    普段は無意識といいますか、なんとなく「自分」「俺」「私」を感じているような気がするのに、いざ感じてみようとすると、あるのかないのかよくわからないです。
    あと諸体が騒音状態という言葉は説得力があります。私は常に、頭の中でいろんなイメージや錯綜した思考、マイナスの感情といった雑多なものが渦巻いており、まさに騒音状態です。静けさという言葉にはとても憧れを感じます。

      • Author
      • 2022年 11月 15日 1:26pm

      >「私」も思考ならば、諸体が騒音状態にもかかわらず「熱い」(という思考)は知覚認識できるのに、なぜ「私」(という思考)は知覚認識できないのでしょうか?

      「熱い」は、強い感覚と結合した思考であり、「私」はその感覚そのものがあまりに普通すぎて思考だと分からないのです。

      >ところでここからは余談ですが、改めて「俺」ないし「私」という感覚を探ってみたところ、とても幽かでわかりにくい、はっきりしないものですね。普段は無意識といいますか、なんとなく「自分」「俺」「私」を感じているような気がするのに、いざ感じてみようとすると、あるのかないのかよくわからないです。

      これだけが重要であり、これだけを行うように教えられているということです。調べてみると、それが思考である場合、私はいません。私の感覚は消えます。これを続けることです。対象を消そうという霊的な下心なく。ただ見るのです。これが探究です。

      >私は常に、頭の中でいろんなイメージや錯綜した思考、マイナスの感情といった雑多なものが渦巻いており、まさに騒音状態です。静けさという言葉にはとても憧れを感じます。

      私もかつては騒音状態でしたので、正しい霊的生活を送ることで静かになると思います。まずは「憧れている私は誰か」と問うことからです。

    • カエル
    • 2022年 11月 15日 6:31pm

    Author様

    ご返信ありがとうございます。

    >「私」はその感覚そのものがあまりに普通すぎて思考だと分からないのです。

    なるほど、だから「私」は「私」なのですね。あまりにも普通、すなわち普段であるがゆえ私であり、普通過ぎるがゆえに私とニアイコールで「私」ということですか。
    わかりにくい表現で申し訳ありません。ここは感覚的表現なので気になさらないでください。

    ところで以前、別の記事での読者の方のコメントにもありましたが、このような有益なことを惜しげもなく教えていただき、ありがとうございました。
    今後ともよろしくお願いいたします。

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