存在

一箇の地蔵

それは、中世の西洋画に見られるような、いわば昇天的な壮麗さ、ある種の華やかさ、美しさ、輝かしさ、といった印象ではない。それは道端にぽつんとある地蔵や、控えめで小さな菩薩像に近い。三つ特徴を挙げるならば、静けさ、厳かさ、純粋さ。瞑想中、あるいはふと静かになっているとき、彼に出会う者、この内なる仏に面会する者は、ともすると意外に感じるかもしれない。なぜならこのお方は「地味」だからである。あえてこの言葉を使用している。なぜなら、大きく見せようとする自我の正反対の姿であるから。彼はおられるが、私たちは気づかない。彼は小さくしてここにおられるが、私たちは見向きもしない。それくらい仏は地味である。大仏は自我が作らせた無知の現れであり、実際の仏は小さい。小さくしてここにおられる。だから彼に面会したヨハネは次のように言わざるをえなかった。「私が小さくなることで彼は大きくならねばならない」と。このお方が見えるようになるためには、私たちは彼のように小さくなくてはならないのである。本当に小さく、静かで、純粋でなければならない。彼は独特の影響力を放っておられるが、その力を表現する言葉はない。磁力的であるかもしれないが、彼は引きつけようとなさらない。浸透力であるかもしれないが、それはあまりにも純粋で精妙である。包容力であるかもしれないが、それはあまりに私たちの色や毛並みと違う。このお方はあらゆるところにおられる。天ではなく、ここにおられるぞ! 今まさにおられる。なぜ私たちには見えぬのか。この臨在を感じることができぬのか。私たちは大きすぎる。自分を主張しすぎる。世のけがれと錯覚に魅せられて、この小さなお方の面前で、踊り狂っている。これは悲しい。これを書いている者は一冊の仏教書とて読んだことなく、一度とて神社仏閣を訪ねたことなく、現代人であるゆえ身なり出で立ち西洋であり、仏的な信仰をあざ笑う痴れ者であったぞ。しかし瞑想で彼が面会した方は仏であったぞ。印象、概念は、仏が一番近かったぞ。

彼は、霊-魂-物質の三つ組で語るならば、霊である。魂は私たちであり、いわば意識の原理である。真の生命は霊である。このお方が本当の意味での真我である。専門的に、第三イニシエーションまでの目標は、パーソナリティーと魂の合一である。しかし完成の第五イニシエーションまで、魂は霊に吸収されなければならない。三は二になり、一にならねばならない。

人は美術館に行く。神社仏閣を巡る。芸術や美術は、臨在の仏を感じぬ自我たちに向けて、知っているイニシエートが外的に表現しようとしたものかもしれないが、見に行くほどの価値はない。それが最高の傑作であれば似た雰囲気や波動を持つかもしれないが、本物には近くもない。本物は私たちの内におられるし外にもおられる。内と外は錯覚である。実際のところ、彼のみである。すべては名もなき一箇の地蔵である。この日本であれば、田舎であるほど道端に地蔵を見るかもしれないが、誰も気にかけないだろう。森羅万象、全ての形態の背後に仏がおられる。あまりに小さくしておられるので、私たちは静かでないと気づかない。純粋でないと感じられない。だから瞑想は、静けさ、諸体の純粋さ、これが大切である。瞑想は仏にならんとする自我の試みであり、物質界での反映である。仏のように座り、仏のように目を瞑り、仏のように厳かにならんとする試みである。これを知り、仏ならざるおのれの人間癖を、私たちは小さき方、地味であられる方がおられる瞑想の中で、これからも正しゆきたいと思うものである。

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コメント

  • コメント (2)

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    • world
    • 2022年 11月 01日 2:01pm

    これらの体験、経験を言葉で表現する事は難しいであろうに、私たちにでもイメージしやすいよう表現されていて、私なりに解釈できました。ありがとうございます。

    おっしゃる通り私たちは大きく生きすぎている。見えないものに目を向けず、見える物、触れる事ができるものに支配され、自分で作り上げた世界を苦しみながら生きています。

    仏はただそこにおられる。人をさばくことも褒めることもなく、静かに居られるのですね。私も小さくなって仏を見つけてみたいものです。

      • Author
      • 2022年 11月 01日 6:49pm

      こちらこそ、ありがとうございます。

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