エネルギー

人は犠牲者である、責めてはならない

かつて、息子が両親を殺した事件があった。まだ二十歳そこらの青年だ。彼は抵抗することなくあっさり自宅で捕まったが、なぜこんなことをやったのかと刑事に問われたとき、「さあね、衝動だよ」と答えた。彼は死刑となり事件の幕は閉じた。

われわれは、まず自分が身体ではないことを知らねばならない。身体として行動するとき、わたしの衝動と言い、わたしの怒りと表現し、またそう考えるようになる。だが事実は、衝動や怒りといった名前をつけられたフォースでしかない。それらは内的な自己が統御し、扱うことのできるエネルギーである。これをしうるには、「わたしの」という結合の錯覚から自由になり、離れて立ち、静かに見ることができなければならない。われわれは、行動者から、観察者にならなければならないのである。

このような知識と技術がある程度知られるようになるとき、死刑制度がいかに原始的であるかが理解されるだろう。それは感情を扱えない人たちのための復讐のドラマであり、利己的な感情の浄化のために正当化された殺人でしかない。ものごとは、起こるべくして起こり、世界にあっては原因と結果の法則に縛られている。ある人の殺人が防がれたとて、彼が死ぬべき運命にある場合、別のものが殺すことになるだけだろう。重要なのは、自分の苦痛の感覚であり、死刑で人を殺しても自分の心が癒えることはない。苦しむ自分の心を見ないかぎり、永遠に人は恨みの情念に憑依され、精神を蝕ませるだけである。

また、人間というものが、二十歳の青年が語ったように、つねに、何らかの「衝動」の犠牲者でしかなく、それは「わたしの衝動」ではない。「わたし」と「衝動」は別である。ちょうど人が獰猛な犬でさえ飼い慣らしてしつけてしまうように、衝動はつねに飼い慣らすことができる。正しい礼儀作法をしつけることができる。その条件は、「わたしの衝動」と言わないこと、そう感じないことである。つまり、一切の想念、一切の感情から離れている内部の観察者の地位に立たねばならない。

これらの理解があるとき、人が人を傷つけることはなくなる。批判したり、相手を変えようとすることはなくなる。関心は、その人間を動かした力、つまりフォースに向けられる。治療は、つねに、高位のエネルギーの負荷により低位のフォースを引き上げ変性させる作業である。目に見える現象世界の錯覚のなかに生きて迷うのではなく、結果でしかない凝結した物質世界の背後の、エネルギーの原因の世界に人は生きなければならない。そうでないかぎり、人は永遠に周囲のフォースの犠牲者であり、衝動の被害者のままである。

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