苦痛

人は自ら苦痛を味わい、自己憐憫に浸る

が世界を現実だと言うのなら、彼の定義のなかにおいては現実だろう。しかし定義は思考であり、マインドの世界のものでしかない。マインドを超越するとき、彼は定義というものと関わりをなくすだろう。すべての思考と袂をわかつだろう。そのとき、現実というものでさえマインドの配下にあり、マインド由来の、つまり彼由来の一時的な錯覚と見なされるようになるだろう。

彼女はかつて、自分を掴んでいなかった。そのため、たやすく生の問題に圧倒された。彼女にとっての現実は、目に映る現象世界であり、それが唯一だった。日々、あるいは刻々という瞬間において、彼女が自分を掴み、世界のみなもとである自己の感覚に焦点を合わせはじめるようになったとき、知恵が訪れ、世界と自分との関係性、そしてその構造を、当時彼女における唯一の道具であった知性を通して、比較的正しく解釈しはじめた。その結果、たとえ彼女が問題に直面したとしても、彼女は、現実より、自分が現実からどのように影響を受けているのか、その感覚をただ見ることを優先するようになった。

は世界を恐れている。問題に対処できないとき、記憶が彼を脅かし、自分が危険な状況に陥るさまを想像するのだ。彼はそれが思考であることに気づいていない。

彼女は世界を恐れていない。他人からは問題に思える事案でも、彼女は記憶と想像に縛られていないため、物事が自分に与える目に見えない影響の力に興味を持つ。問題を解決しなければという、恐れが条件付ける反応を見ることに、より興味を持つ。彼女は外側の世界で生じることのすべてを受け入れている。それは定めと掟と法の世界であり、言うなれば神において完璧である。もし問題というものが起きうるならば、それは自分が目が外へと引きつけられ、内において眠りについたことを意味するだけである。

人は外に出て、わざわざ苦痛を味わい、私はこんなに苦しいのですと言い、内から見ている方はその自作自演に悲しむ。

は諦めるという意味の賢明さを学んでいる最中である。諦めるとは、知ることによる受容である。それは投げ出すことで逃げるのではなく、理解することで否定することである。この文脈において、否定とは受容である。受け入れようとすることは目をそらすことである。彼は問題が起きたとき、それに対処できないと知るやいなや、絶望する。このようにして目をそらすのである。絶望が焚きつける想像ないしは予想と、そこから生じる恐れにばかり時間を割いて、ありのままの苦痛の感覚に向き合うことはしない。

彼女は哀れみを感じて彼にアドバイスする。

「問題について、いったん諦めなさい。諦めることで脇に置きなさい。心がより静かになったなら、問題から受けている苦痛や悲しみといった感覚を、そのままハートで観察しなさい。目は眉間の高みに保ったまま、ハートの苦痛とともに在りなさい」

は答えるだろう。

「苦痛はいまありません。問題は自分で作りあげたときのみ問題でした。私は問題が連想させる恐ろしい想像に巻き込まれていただけで、そのような妄想に付き合わず、自分の感覚と共にあるとき、問題はどこにもありませんでした。苦痛はしたがってなく、大いなる苦痛が消えたときに感じられるのは平和と幸福でした。なぜ私はこれほど単純なことに気づかぬまま生きていたのでしょうか。また、なぜ世界の人々はこれほど簡単なことに気づかないのでしょうか」

彼女は世界を指さして言った。

「現実が遊び場なのです」

コメント

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    • ことは
    • 2018年 12月 11日

    普段見慣れない語彙が飛び交う中で、文章の枝葉末節に気を取られず、筆者が何を伝えようとしているのか考えることが私の課題だと思っています。いつも導いてくださってありがとうございます。

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