パワー

力のはなし – 3 - 中毒・依存症

ギャンブル依存症なのだと彼は言う。はじめは趣味程度。数字と心理を読む能力に長けており、精通するにつれ、えも言われぬ勝利の快感に憑かれるようになる。会社の経営者だったが、自身の新たな才能にパワーの感覚をおぼえ、住まいを海外に移してまでおのが天分に盲目の日々を送った。裕福だそうだが、結局のところ、ゆくゆくは破産するはずだという理性の警告に現在は悲観している。そして、中毒・依存症と呼ばれる類いの引力に対して彼は為す術を持っていない。血のたぎりから大きな勝負に挑むも負け、皆が経験することだと励まされたそうだが、現在、自信を喪失しており、カタギの生活に戻りたいと願うも、もはや自身の力では破産するまで止められないだろうと感じている。

「あなたは瞑想で多くを解決できるように仰いますが、私のように末期の依存症ですら該当するものでしょうか」

個人の状態を省いて答えるなら、解決はできる。それも、比較的容易な部類に属する。なぜならそれは内的な問題だからである。癌患者の末期の肉体的な苦痛について問われるならば可能性として難しいと答えるが、瞑想できる肉体状態にあるのであれば理屈上は治療できる。だがわれわれの多くがじっさいは失敗するだろう。なぜなら、われわれは本当は解決したいと思っていないことに気づいていないからである。

「いえ、さんざん痛い目に遭っています。解決するしか道がありません。しかし止められないのは事実です」

止められないという意味を考えてみよう。癖や習慣も同様だが、対象への繰り返しや集中は、そこに引力の拠点としての磁場を生み出す。もともと純粋であるエネルギーも、注ぎ込めばそれは引きつける形態となって効力を及ぼす力になる。あなたはその力と自身を引き離すことができないため、どうしようもなくなる。一度根付いた磁場の効力は、より高位の力によってのみ解除できる。力には低位のものと高位のものがある。上も下もかぎりはない。あなた自身は対象と合一している状態にあり、その隷従から解き放ってくれる高位の力を内側に求めるより他に絶対的な手段はない。

「瞑想はやってみました。今でも毎日つづけています。しかし、今のところ変化の兆しは見えません。瞑想中、わずかにギャンブルへの欲求が消えるような感覚があるのですが、瞑想をやめてしばらくすると、あっけなくまた私は罪悪感を抱えつつギャンブルへと走るのです」

そのようなものである。あなたがギャンブルに走るとき、あなたは瞑想をしないだろう。瞑想への意志力を、単にギャンブルの引力が凌駕しているだけである。したがって、あなたという個人を構成しているエネルギーの集合体は、その低位の磁場の振動率と共鳴しており、その意味は、彼の欲求において、ギャンブルをやりたいというだけである。共鳴するとき、あなたは瞑想の静けさよりも、これからギャンブルに向かうときの高揚感を優先するのである。ただし、この状況に罪悪感を覚えたり、非難の眼差しを向けてはならない。先ほども言ったとおり、理屈上、そのようなものだからである。

「単刀直入に、どうすればいいのでしょうか。あるいは、私も例に漏れず失敗すると仰りたいのでしょうか」

まず、あなたは単なるエネルギーの集合体を「わたし」と見なし、そう思い込んでいる。それはたえず変化する実在ならざるものであり、あなたは真我や魂と呼ばれる内なる実在を信頼する必要がある。実在からもたらされる(と個人は感じる)エネルギーは、あなたの精製具合に依存するが、強力である。あなたが悪いことをしているのではなく、力の作用の観点から純粋に知的に見ていただきたい。そこには法則と動きがあるだけであり、個人的な見解が立ち入る隙間はない。あなたは誤って身体を自分と思い込んでいるが、謙虚になり、御しがたい力に圧倒されそうなときは、内なる実在への意志と信頼をもって、治療したいとか、ギャンブルをしてはならないとか、無意味な思考に巻き込まれることのないよう、ただ存在とともに在るべきである。治療するのはあなたではなく、実在である。

「存在とともに在るという意味の解釈は難解です。ニサルガダッタ・マハラジが言っているように、『わたしは在る』という感覚に集中するという意味でしょうか」

知性はどうでも良いが、はじめは誤っていても解釈から入るしかない。しかしわれわれの多くが考えすぎである。シンプルに、『わたし』という存在の当たり前の感覚とともに静かにしていればいい。あまり、『わたしは在る』とか『わたしは誰か』などと心のなかで唱えたり、考えたりしないようにすべきである。知性よりも感覚を重視しなければならない。やがて、存在との通路が明瞭なものになるにつれ、あなたの自我は効力を失いはじめる。逆にいえば、あなたは存在そのものとの接触を肉体脳で感知できるようになり、即時に、つねに存在とつながることで、合一の過程は推進力を増し、あらゆる外的な力に対して免疫と保護を得る。

「確認しますが、圧倒されそうな欲求に負けそうになるとき、欲求をひとつの力として見なし、『存在とともに在る』ことで欲求なる効力を無効化させることができる、という理屈でいいでしょうか」

そのとおりだが、無効化しようという個人の欲求から瞑想してはならない。その妨害する思考もまた、ただ見る対象になるだけである。あなたは何年かかるだろうか。すぐにできるようになるかもしれない。ただし、あなたはいま個人感覚であるため、個人としての決意と誠実さをもって、失敗と成功を繰り返しつつ、あきらめずに最後まで存在に突き進まなければならない。依存症の治療という些細なことは無論として、想像を絶するものにあなたは近づき、その恩恵を受けることになるだろう。そのときあなたは、自身のより大きな内的な仕事に気づくことになるかもしれないが、もし運命が許すのであれば、苦しんでいる人にあなたの技術を教えてやると良い。魂の喜びはたえずそのことを願っている。

コメント

  • コメント (2)

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    • MB
    • 2019年 6月 07日

    はじめてコメントします。
    いつもじっくり読ませてもらってます。

    ある人に言われた言葉、
    「正しい食事をし、脳にいい事をしましょう」。

    脳にいい事が何なのかを問いますと、
    彼女は「瞑想です」と即答しました。

    瞑想は脳に刺激を与えるという表現で
    合っているのかわからないのですが、
    少なからず私が今までやってきた瞑想は
    脳で感じることはできていません。

    本当の瞑想はどこに1番エネルギーを
    使うのか?

    様々な依存を克服する方法の一つに
    瞑想があるなら

    誰でも何かに依存するところがあると思いますので、
    もっと深く探求しないといけないと感じました。

    • Author
    • 2019年 6月 07日

    肉体脳にも瞑想は影響を与えますが、エネルギーを感じたり、扱ったりするのは、肉体というよりエーテル体であり、その中枢をなすチャクラなどと呼ばれているエネルギーセンターです。エーテル体は肉体の鋳型であり、エネルギー体です。瞑想に習熟するにつれて、エネルギーを扱うようになりますので、必然的に、肉体よりもエーテル体に意識の比重が置かれるようになると思います。

    依存の治療はフォースに対するエネルギーの賦課の問題ですので、感じ、扱えるようになると、それは自動的なものです。特に問題なく克服できると思います。あまり難しく考える必要はないです。瞑想の中で理解するようになるはずです。いずれにせよ、ことを為すのは私たち個人ではないため、「本当の瞑想はどこに1番エネルギーを使うのか?」といった個人の思考や背後の情緒は無視してかまいません。かまっていると、思考に終わりはありません。

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