奉仕

動機が明かす弟子の無能

少なくとも、我々は全体の一部ではなかろうか。そう思わない人は自分に利益のある華々しい話を好む傾向にある。しかし、自分のことよりも全体について考えたい人もいるのである。なぜなら、彼のハートは適切に開花しており、自分と他人がニアリーイコールだからである。この開花がやがて万物の魂との接触、認識、そして一体化へと導くのである。

例えば、皆が適切な働きをしないかぎり、小さな村の存続がいよいよ難しく、危機的な状況へと容易に陥ることを村人各々が固唾を飲んで理解するとしよう。この危機感を認めるとき、彼らに生まれるのは責任感である。また連帯感である。全員あっての自分という感覚がもたらす感謝の気持ちと助け合い、それと求められる仕事(奉仕)への自発的で実践的な参入への意志である。これを惑星単位で考え始めているのが弟子である。しかも結果の世界ではなく原因の世界から考え始めているのが弟子である。見習いの時期に個人的なフォースの扱いを魂の位置から第三の目を通して覚えたのはこのためであった。

いま、世界の中の一個人、全体の中の私、という見地から自分を見るならば、どうであろうか。足を引っ張る者。怠惰な者。自分勝手な者。弱さに打ちのめされる者。助けるよりは助けられたい者。与えるよりは与えられたい者。神や師への口癖が「助けてください」である者。他人よりも自分という者。より多くを所有しようとする者。危機の時に真っ先に逃げ出す者。個人の幸福が人生の目的である者。やがて……村から追い出される者。

自我であるかぎり、大なり小なり、我々は足を引っ張っている。今のところ、迷惑な存在なのである。誰に対して(神性の認識)であろうか。また何に対して(神性の目的の認識)であろうか。ここに答えられるようになるまで、また回答が個人的なものから唯一である霊的なものへと変わるまで、弟子としての責任感は生まれない。人間としての責任感はより小さなものであり、必然的に利己的なものである。それは家庭という一箇の単位を統御し、彼らの理想に従ってより美しく発展させることが平均的な目標である。弟子の場合、家庭や仕事といった義務の統御は当然として、彼の意識拡大に比例して、何らかの啓示に至っており、その啓示点そのものが、自らの全体意識を阻害する要因と、彼の霊的な不具の及ぼす影響を、彼に伝達しているはずである。

このとき、修行の動機は全体のためになるはずである。もう迷惑はかけられない。だから、これまでは自分が苦しいから、社会の中でみじめな存在だから、自分を大きく見せたいから、私という存在意義を燦然と確立したいから、真我や悟りやイニシエーションを求めてきたのである。それでもいくらかの発達を神は許された。それとても、全体というバランス感覚を我々の内側に発達させるためだったのである。弟子は次の事実を経験的に知っている。つまり、利己的な者ほど力に欠け、他人のために自分を忘れる者ほど強く大きなエネルギーに満たされるということを。神はこのような者を好み、自らの仕事に使おうとなされるのである。

何年修行しても結果が出ないと嘆かせる自我に苦しんでいるならば、方針転換するときである。動機は全体のため。自分のための修行など絶対にない。ここを常に意識できるかは分かれ道になる。いつのときも、自分ではなく全体のための行為であるか、意識されなければならない。何を話すときも、全体のためを思って話したかを確認しなくてはならない。何を思うときも、全体のための思考であったか、ここに厳しくなくてはならない。このようにして浄化するのである。全体のために使用できる道具になるために浄化するのである。エネルギーの無駄遣いや誤用をなくす純粋な通路たりえるために浄化するのである。魂の意識はこのような全体的なものである。したがって、このような修正の訓練が、やがて魂に近い波動へ我々を引き上げ、魂のオーラ領域に入ることを許し、合一の準備への許可を下ろすものであることをハートの中で知るべきなのである。

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