瞑想

博学病

より本質的に言えば、何もする必要がないこと、何かになろうとする必要がないこと、今そのものの我や現在に対する知足安分から生まれる身じろぎのない感謝の態度、マインドの覆いを通している以上、何もかもが私ではなく、何もかもが無関係、何に対しても名付けることなく、概念の中に押し込めることで自らを囚人とせず、従って私は新鮮なまま一切に孤立して自由であるという統一の感覚、これらを理解しゆくことが瞑想の基本や進展であると言えるかもしれない。

まず、我々が犯しがちな罪の一つ、つまり命名について考えてみたい。瞑想中、何が起きても、その事象や想念の跳躍先に対し、命名しようとするのがマインドである。だから、知識や語彙はある段階から足枷にしかならない。当てはめようとする動き。ここに安住しようとすることは、マインドの罠であり、原因は自我の恐怖である。我々は、未知のものを恐れ、既知の枠にはめ込まないと安心できない。この命名なる無意識の働きが、特に博学な人において、瞑想における大きな障害となっている。

静かであるとき、命名のプロセスはむしろ知覚される。次から次へ、どのように自我がおのれを”補充”しようとするのかが見える。真に見られたとき、自我の弱体化が起こる。どのようにしても、知覚原理を騙すことができず、また動きの構造が明瞭になることで、動き自体が止むのである。このマインドの降参と沈黙、つまり魂としての勝利は難しい。どれだけ頭の良い人でも、これほどの難問に直面することはないだろう。むしろ、魂がマインドを征服する過程において、学校の勉強の出来不出来で計られる一般知性は障害にしかならないことを知るだろう。低位マインドは、静かになることでのみ、瞑想を支配する真の知性に席を譲ることができる。

学校教育は、低位マインドの訓練が目標である。真剣に学校の教科書を勉強する気になり、多大な時間と労力を犠牲にし、世の中が用意した答えにわざわざ合わせて回答してやるための意志を強く持つためには、それなりに無能でなければならない。何が言いたいのか。一つは、瞑想に学歴や学力は関係しないということ。また一つは、多くの博学の熱誠家の弱点が、その博学ゆえ、低位マインドの信奉にあるということである。それゆえ、瞑想や日々の実践よりも、研究や読書の時間が長い。これはもったいない。瞑想よりもまだ本を信じているのである。内側よりも、まだ外側の師の言葉を信じているのである。

低位マインドは瞑想には使えない。そこを超越するのが瞑想のはずである。いかに高潔な教えであれ、我々のマインドを通るかぎり、ただ個人的に解釈された想念になる。それは自我を満足させ、瞑想を妨害する。だから、読書や知識獲得といった、低位マインドに寄与する日々の生活傾向は、ある段階からは、気づかれ、慎まれる必要がある。以上が侮辱と受け取られることなく、何がマインドの低位様相であり、何ゆえそれが低位なのか、それが自身の中で見い出され、その峻厳な目によって、マインドなるものの正体を露わにしていただきたいと願うものである。どうか我々に静けさが訪れますように。

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