奉仕

地球の飢え

薬は定期的に摂取しなければならず、病気自体を治しません。手術もまた病を治しません。本質が変わらぬ限り再発します。別の病気となります。病気とは何なのか。通常、病気を作るのは私たち自身であると思います。肉体的な病気も、精神的な病気も同じです。

暴漢に遭って怪我をした。相手のせい。上司に虐められて鬱病になった。相手のせい。なぜ自分がそのような目に遭ったのか。それまでの自分の波動の表現はどのようなものだったか。何に興味を持ち、何を取り入れ、何を表現し、何の種を蒔いてきたか。出来事は法則通りに起こり、私たちはその事象からおのれを見つめます。けっして出来事の道具となってくれた相手を非難することはありません。

空腹が内なる者への渇望の現れであるように、不幸もまた、内なる接触の欠乏を意味しております。いくら食べてもまた腹は減ります。いくら欲しいものを得てもまた何か欲しがります。この飢えを見てやってください。何を訴えているでしょうか。生命エネルギーとつながれば腹は減りません。内在エネルギーと振動すれば即幸福です。霊的飢餓が、世界中を不幸にしています。肉体の死を知っていながら、肉体の欲望に生きてしまっています。これほど私たちを打ちのめす悲しがあるでしょうか。

サタン

限りない幸福が、限りない愛が、想像されるようなものではなく、ごくごく静かに、安らかに、満ち足りたまま、すべての背後に原因として偏在しております。その振動と一致できているか、ただこの一点のみなではないでしょうか。正しく瞑想し、正しく日常で表現し、正しい波動を受け入れ、正しい振動で生きているならば、私たちを構成する質料は新生され、世の聖者方が証明されてきた意識状態が、あちらから、私たち小さき者を包み込むではないでしょうか。

ここに至るまで、この境地が目の前にあることを知るまで、長く、前の見えない、暗い道を通らねばならぬゆえ、ほとんどの人が信を失い、騙されて物質の振動へ帰っていくのを見てきました。自己憐憫は欲望が言わせる言い訳です。私はまだ低いからと多くの方が言います。私はまだまだだからと。そうではなくて、「まだまだでいたい」のではないでしょうか。自我に騙されてはなりません。これがキリスト教の言うサタンではないでしょうか。

限定せず

愛の渇きを見てください。世の中を渇きの観点から見てください。もし愛に恵まれているならば、私たちは欲望に騙されません。私たちは争いません。生来の特権として幸福を生きれる私たちは、互いを生かし合い、互いと共に生き、互いのことを想い生きます。このままでは、地球はだめになると思います。望まれる方向性にむかっておりません。大きな問題は、一人ひとりの内側の総和です。そこらじゅうに、いたるところに、愛を表現できる器が必要とされています。肉体という間違った自分を生きて、小さく限定することで、全てへの愛を閉ざすような私たちではありません。

道で転んでいる人がいるなら抱え起こします。自分に夢中な人は「気づかなかった」と言います。自分の進歩より、実践の表現です。サマーディを体験しても、その兄弟が愛を表現しておらぬなら、何の意味があるでしょうか。ボランティアや奉仕活動のことを言っていません。本当のボランティア、本当の奉仕活動は、全体意識が為すものです。「私が行った奉仕」とは言いません。また肉体の行動を伴うとも限りません。真の奉仕は奉仕と感じません。彼らは当たり前のことを行っているだけだと言います。欺瞞を脱ぎ捨て、波動を高め、愛の流入体となり、愛を表現し、愛を生ききる私たちであることを祈ります。

新生前のページ

瞑想と憑依次のページ

コメント

  • コメント (0)

  • トラックバックは利用できません。

  1. この記事へのコメントはありません。

CAPTCHA


カレンダー

2022年12月
 1234
567891011
12131415161718
19202122232425
262728293031 
PAGE TOP