錯覚

大錯覚

簡単に言おう。指を一本動かせるだろうか。それは誰が動かしたと思うだろうか。

「指を動かしてみよう」いう思考が生じる。思考に従ってエネルギーが指を動かす。この流れを見て、人は、私が動かしたと主張する。しかし、動かしたのはエネルギーである。そのエネルギーを動かしたのは思考である。ならば、「指を動かしてみよう」いう思考はどこから来たのだろうか。心や精神あるいはマインドと答える人がいるかもしれない。それらは何だろうか。せいぜい、思考の束である。そこで、思考の束でしかない精神の動きを司る主人がいるだろうか。「私」という感覚がその主人であると人は言う。その「私」とは何だろうか。調べれば分かるが、思考である。すべての主は「意識」であると答える人がいるかもしれない。しかし、指を動かす原因になったのは、意識ではなく思考である。

ならば、思考が「私」なのだろうか。

指が動いたこと、指を動かそうという思考がその前にあったこと、指が肉体の一部であること、肉体感覚や五感があること、意識が現象を見ていること、このような全体から、思考が、この全体の主を「私」と命名したのである。指を動かすにあたって、実際に影響を与えたのは思考である。思考の束である精神である。それらを我々は無意識かつ無意味に「私」と呼んでいるだけである。

これを知る者は何を理解するだろうか。「私」などという主体が存在しないという事実である。存在するならば、それはただの思考である。意識つまり魂を覆っているのは思考である。また、思考から派生する情緒である。そして、肉体はそれらに従うだけである。ここまでを真に理解するならば、理解しようと試みるならば、無意識に生きれなくなる。注意深さが生じるようになる。「私」が行為者だと考えられなくなる。「私」と言えなくなる。理解を拒む者だけが、「私」などと分離して生きることができる。つまり、思考がのさばるのを絶え間なく許すのである。思考に色づけられた情緒を常にのさばらせるのである。その結果、肉体が放縦をきわめるのである。

思考あるいはマインドは、人間を構成するものの条件づけに従って、神つまりエネルギーを私的に強奪した。「我がもの」と言い、無意識かつ独自に神を所有した。そして神を誤用した。これが罪である。これのみが罪であり、カルマという法則を作動させている原因である。以上について真剣に考えることができるのは、進歩した精神だけであると教えられている。もし我々が真剣に考え理解するならば、その進歩した精神というものはなくなる。そのような二元的な発想に閉じ込められることはなくなる。分離という罪は去る。この先は言語が及ばない領域である。

質問

これを公開する前、ある兄弟に読んでもらった。そして疑問点を教えてほしいと言った。

Q:高い段階の人は、「私」というのがないから神の使いなのか。

その通りだが、それは次のような意味である。唯一なる神、つまり唯一なるエネルギーが、分離した個人に邪魔されずに働くことのできる肉体を見て、人間は覚者や神の使いと呼んでいる。一方で、「私」という感覚つまり思考を自分と見なしている精神は、唯一なるエネルギーを「自分のもの」と言って所有し、分離した個人として使用する。これは神の意志の働きではないため、誤用であり、限定であり、罪であると言われる。

Q:なぜ「私」という感覚をなくす必要があるのか。

なくす必要はない。精神がある段階に至った時、「私」という感覚のせいで人生が苦痛になるだけである。苦痛から逃れたいから、「私」という原初の悪にたどり着き、その放棄と終焉を願いはじめただけである。

Q:例えば、見栄えのためにダイエットする人は長続きしない。栄養や、肉体への害悪や、食に対する意識、空腹に対する正しい考え方を持っている人の方がダイエットの質は高く長続きするはず。このように、「私」をなくすために、質の高い長続きするための日頃の考え方、取り組み方というものがあるはずだが、それはなにか。

理解である。それも、徹底した理解である。「私」というものが完全に理解される必要がある。そのためには、常に「私」に対して意識的でなければならない。ここに無意識な時のみ、「私」という個人が生じ、分離的な罪を行いはじめる。しかし、理解さえあれば、「私」に由来するもの、「私」であるもの、つまり思考や情緒といったものに常に離れて気づいているようになる。あえて、「私」という感覚に溺れることをしなくなる。そのうち、何とも関係ないと感じるようになる。従って、ただ全ての動きを傍観的に見るようになる。この態度が純粋意識である魂の観照と似ているため、波動の一致が生じ出し、魂を知覚し、魂とより長く居られるようになり、最終的に魂と合一し、「私」が破壊されるのである。

長続きしないダイエットの例に戻し、霊的な分野で似た例を挙げてみよう。ラマナ・マハリシが言うから「私は誰か」を問う者は長続きしない。見栄えのためにダイエットしている人と一緒で、悟りや真我実現といった利己的な欲望のために瞑想をしているだけだからである。したがってエネルギーも弱く、集中力もない。「私は誰か」と問う理由を本当に理解しておらず、ただ「私」という個人の欲望のために唱えているだけなのである。そのため、霊的な進歩はない。

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