グラマー

失敗 -錯覚と偏極-

我々には各々、大きな目標と小さな目標がある。長期的な視野があり、当面の問題がある。ここで直面するのが失敗である。目的に忠実でなく、目的が不明瞭な場合、一日に数回しか自身の失敗に気づかぬ者もいるし、逆に千回気づく者もいる。また一度の失敗に大げさに反応する者もおれば、失敗という感覚を一々持たない者も存在している。ここまでで言えることは、大小における目的の明確性と、失敗に対する捉え方、この二点の重要性である。

目的に関しては、自分がいま何のために生きており、どこへ向かって進んでいるのか、ここに意識的であり、四六時中、メンタル的に系統立てが出来ていることが重要、という話である。この「道」という感覚における整理は、後に錯覚と見なされるが、それまでは自己統御における大きな役割を果たすため、避けて通る必要はない。また自覚の問題であるため、目的へと自己を固定する作業はさほど困難ではない。問題が起こりやすいのは、失敗に対する反応である。

役者

初心者は、失敗した自分が好きである。大きく落胆したり、達成に程遠くして挫折する自分を演じるのが好みである。つまりグラマーである。グラマーとはアストラル界の錯覚である。失敗に対して情緒で反応してしまうのである。このような人は、しばしば「役者」と呼ばれる。弱き自分、駄目な自分、苦闘する自分を演じることに夢中であり、本質が目的への前進であることを忘れている。つまり自己集中型である。道の中の自分が主役であり、道をたどることが目的になっていないことに気づかない状態である。

このような錯覚を経験し尽くした熟練者は、失敗に対して情緒で反応しない。知的に反応する。つまりメンタル偏極を達成している者のみがこの意識状態を活用できる。この時、失敗はただの発見であり学習でしかない。余計な情緒が入り込む余地はなく、”前が見えないことを特性とする道”における前進のための光として活用されるだけである。彼は一日千回失敗しようが、それを失敗として扱うことがない。それは見られ、瞬時に咀嚼され、修正の必要性が判断され、また目的に向かうだけである。哀れな自分はもはや興味深い主人公ではなく、目的のみが彼を支配している。このような者を、「意志の体現者」と我々は呼ぶ。

メンタル偏極

人類は現在、このようなアストラル界の錯覚に屈している。グラマーが蔓延しており、情緒的な錯覚に免疫を持っておらず、絶え間なく感染し続けている。アストラル偏極からメンタル偏極へと素早く移行する必要性がこの記事で理解できるはずである。チベット人の覚者が「メンタル偏極すれば能力は百倍化する」というような事を言った意味が理解できるはずである。また、人間がやがて人間でなくなるにつれ、情緒に反応できなくなる理由も理解できるはずである。そして何より、我々はアストラル性質に屈する弱き者から、そこでぐずぐずしている装備を持たぬ者たちを引き上げる側へと移行しなければならないことを理解するはずである。「まだお前はアストラル界にいるのか」と言われないようにしなければならない。

今回取り上げたのは失敗という身近なものへの反応についてである。失敗を演じる役者としての自分に集中している暇はない。目的がしっかりしているのなら、前進である。引きずり降ろそうとする情緒や思考で無駄に停止することなく前進するならば、道の途中で何が起こるであろうか。迎えが来るのである。存在が来るのである。前の見えなかった道が明るくなり、道も前進もなかったことを我々は知る。努力が終わるのである。前の記事で、「試みは自我のものであり、存在は魂のもの」であると書いた。それはこのような意味である。彼は動きをやめ、移行というイリュージョン、つまりメンタル界の錯覚からも醒めて、存在であるそれそのものとして、ただ在るようになるのである。

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