グラマー

孤独

孤独感とはなんだろうか。孤独が引き起こす恐怖とはなんだろうか。弟子やイニシエートは孤独である。一般的な孤独は感傷的なものであり、弟子の孤独は自身のうちにまだ個人性が残っていることに由来し、イニシエートの孤独についてはあらゆる段階において私たちの理解を超えている。ここで扱うのは弟子の孤独である。これは二重性の問題でもある。つまり、個人と魂が意識内で存在しており、魂が完全に個人を掌握していない状態である。

まだ自我意識である弟子は、自分が周囲の誰とも異なることを認識する。誰も自分を理解することはなく、むしろ誤解される。前方に見える兄者方は、あまりにかけ離れており、完全に非人格であり、ある種のよそよそしさを感じる。子供の時の友情、教師とのあいだに育まれた相互理解、夫婦間に見られた共感や連帯感、隣人との意気投合や仲間意識、このようなヒューマニズムは全てなくなる。弟子は浮いており、何を感じ考えているのか訝しがられ、付き合いの悪い人間と見なされ、白い眼がうろつき、不名誉な批判をあちこちで浴びる。弟子は問う。「魂の立場を維持しながら、いかにして世に立ち位置を確立すべきか、あるいはそれが可能であるのか」と。このとき、弟子はしばしば身を引く。苦悩しながら、「不必要な目に余る沈黙」を採用する。この仮面の背後でしばしば憤慨し、しばしば悲しみ、しばしば耐えられないと感じる。

これは、孤独というグラマーだが、その現実的な錯覚の中では、弟子はひどく悲劇的である。とはいえ、引き返すことができないことも分かっている。あえて酒に溺れてみても、誰をも昔のように理解しえない。家では子供のことで嫁や旦那と価値観が合わなくなる。師に相談しようにも、あまりにくだらない質問であることがわかっている。可愛がっていた犬も死に、公園で糞を取ることもなくなる。気分転換にどこへゆこうとも、周囲の笑いさざめく声、興味深くない世間話、騒がしい振る舞いに我慢もならず、もはや逃れられないことを知る。彼に残されているのは自己放棄、そして魂との融合のみであることが理解される。

なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してただ走ることです。

フィリピの信徒への手紙 3-13

弟子は過去との決別を学び、前進しはじめる。逃げ場は閉ざされ、また逃げる必要もないと感じるようになる。立ち向かうようになる。フォースを見て、それを扱うことができるようになる。そのとき彼は静かである。見た目が静かなのではなく、諸体が清浄なのである。どこにいようが、フォースの識別、魂のエネルギーによるフォースへの賦課、これらが可能であるかぎり何も問題がないことを知る。弟子と魂の融合はどんどん深くなる。真の友情、真の師弟関係は魂とともに育まれる。気づけば、アストラル界において魂である自分は無反応であり、非人格であることを知る。自分が異質であるという分離的な考え方はなくなり、敵も友もなく、あるのは愛だけであるという認識が深まりゆく。ラジャスとタマスは除去され、サットヴァの調和が輝き、万物との一体感が育まれる。自分という発想が難しくなり、より大きな視野に馴染みだし、彼を捉えていた孤独というアストラル的な錯覚がどのようなものであったかも忘れてしまう。彼は幸福であり、余裕があり、それゆえ周囲と調和し、むしろ周囲を引き付ける存在になる。それは弟子が魂ゆえ、愛になったからである。

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