質問

家族がうるさい

まず一つ目の質問の骨子。

質問であれば答える、しかも丁寧に答えると言うから質問しているのだが、質問すれば無意味な質問に答えられないと返される。私はまだ分からないことが多い。だから以前のように書いてほしいだけ。またなぜ私の質問は無意味だと切り捨てられるのか、基準は何か。

同じような質問の繰り返しは無意味である。すでに答えているからだが、もっとよくないことは依存することである。ここに書いてある類いのものは、自らの瞑想によって容易に到達でき、また克服される。なぜなら、書いてあることは事実ではないからである。あなたが自ら瞑想によって理解に至るとき、それは観念のような低位の錯覚とは次元を異にするものである。

いずれにせよ、あなたに対するわたしの誠実さが変わることはない。個人的な解釈に引き留まるより瞑想すべきである。あなたの問題は、自らに議論的であり、本質から逃げており、逃げていることを本当は気づいているが、瞑想に重きを置いていない、すなわち瞑想の重要性に気づいていないため軽視している点である。この場合、あなたの年齢であると、このまま議論で生涯を終える可能性が高い。私の言うことを信じるのであれば、非常に心地の良い議論という慣れ親しんだ遊びを荷物であると知り、捨てて、そのような傾向を持つ自分をありのままに見るため、そして見て「剥がす」ため、瞑想を、つまり真我を、新たな拠り所とすべきである。正しい瞑想が人を裏切った例はない。

二つ目。別の方(プライベートな部分は除いて編集)。

結婚しており嫁と三人の子供がいる。二人はすでに就職している。年の離れた三人目だけが問題を抱えている。私は父親としてできる限りのことをしているが根本解決は難しい。また、昨今この問題のために家庭環境が荒んでいる。私のライフワークである瞑想ができない。嫁は瞑想を理解しておらず、私が瞑想をはじめると、「このようなときに」と怒り出す。ほとほと疲れ果てている。あなたの言葉を借りると、これが親しい人との離別の原因になるのかと悩むが、やはりそうではないという結論が自分の中にある。しかし、瞑想も思うように今できず、正しい判断力もない自分になってきており、離婚を考えざるをえなくなっている。この場合あなたならどう対処なさるか。

仰る通り、これは親しい人との離別に当たらない。息子という、まだ自分に由来する責任を負っている状態だからである。周囲の騒々しさや問題への疲弊であなたが辛い状況にあるのは分かるが、瞑想生活とは関係がない。瞑想はどこででもでき、またしばしば喧噪のなかのほうが集中できるものである。瞑想のために責任を放棄した人の末路は失敗に終わるのが恒例である。彼らの瞑想は、以前よりも集中において散漫になるのである。あり余る時間にかまけて、瞑想はただの空想になり、締まりがなくなる。いくらかの制限のなかで行われる瞑想は集中を余儀なくされる。また周囲の喧噪、つまり錯綜するあらゆるフォースを見ることは、隔離の点においてきわめて瞑想に寄与する。

家庭の問題にどう対処するかは、具体的な事例ではなく、あなたが今後、個人の物語を罠と見て、おのれを見失わず、どれだけ真剣に瞑想を根底に置くかにかかる。あなたがアストラル的に自由であるとき、周囲のアストラル・フォースはあなたを悩ますことがない。常にあなたは隔離の保護意識のなかに在り、水に流されたり、飲まれたりすることなく、ただ知的に行動する。やがて行動している自分という感覚より見ている感覚が優位になりはじめる。これは同時に次のことを意味する。あなたが個人として、対象も個人として知的に行動するのではなく、単にエネルギーとフォースの観点から物事を扱うようになるということである。それはあなたの意識において自明である。

現状、アストラル性質によって、錯覚が現実的になり、水に飲まれている状態であるため、強い信念を持って瞑想つまりおのれに向き合う必要がある。おのれを掌握(知的にではなくフォースの観点あるいは整列の点で)しないかぎり、あなたもまた見えないものの犠牲者として「正しい判断力もない自分」になり、家庭がよくなることは難しくなる。しかしこのように言うのは、あなたが瞑想を「ライフワーク」としてきたと言っているからであり、そうでなければ一般的な方法で一時的な解決策を探るしかない。あなたはそのような段階ではないように見えるがいかがだろうか。

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