苦痛

思考が人を殺す事例

かつて知っていた人間、礼節と敬意を重んじ、ずば抜けた才能をひとり賞賛されることを忌み嫌い、敗れ去った戦友たちの痛みを思いやることしか成し得なかった博愛の男が、おそらくは十年、見ないうちに思考の犠牲者になっていた。はかり知れぬばかりの孤独ゆえ、誰も近づけず、誰もその心中を推し量ることさえできなかった。何がきっかけであり、何に悩み、苦しんでいたのだろうか。われわれが最後に言葉を交わしたとき、彼はスピノザの言葉を引用して、なにごとか伝えんと二言三言、言葉を続けたが、意味さだかならぬ途上で口を閉ざし、あふれんばかりの感情をいちどきに押し殺した笑みで、よそよそしく、踵を返して立ち去った。

いま、痴呆のように顔は緩みきり、目はあらぬ方向をむいている。若くして髪は薄くなり、顔は不潔に髭で覆われている。ひとり言をいい、時々にやける。歯が汚らしいまでに黄色く、いじけている。他人の言葉に反応するが、それは知的なものではない。つまるところ、かつての人格は存在していない。貧しい田舎の実家で肉体だけが脈打っている。村では心ない人間たちの嘲笑の的になっており、隣で老いた母親が無表情で涙を落としている。

考えすぎは、しばしば世間や常識とのバランスの梯子を取り去ってしまう。歪曲した世界が拉致された棲家となり、思考のあぶくの中でやがて溺死してしまう。

彼は何かの答えを探していたのであろう。しかしこの種の場合、思考の中に答えはなく、思考が答えに導くこともない。思考は時に危険であり、文字通り人を殺す。精神は、おのれへ向けられた鬱々たる思考の乱射に耐えうるようにできていない。内向的あるいは内省的な人間は、知らぬ間に連れていかれないよう、思考の危険性をたえず承知している必要がある。

思考という不完全な道具は、いずれ純粋理性に取って代わられなければならない。答えは沈黙と静けさの中にのみ落ちてくる。甘やかされた思考、見守られていない思考はつねに危険である。思考は詐欺師に等しく、簡単に人間を騙す。騙され続けた末路で彼は彷徨い、帰り道を失って、同一化していた思考に殺されたのである。

彼が思考の罠に気づき、精神を静かにすることで罠を回避する術を知っていたならば、そもそも問題などなかったことに気づいただろう。考えることをやめ、リラックスして、静かに、ただ「わたし」という存在の感覚とともに在ることが鍵であることを知っていたならば、続けるうち、思考や精神といった錯覚の世界は超越されただろう。そして限りない美と愛のなかで、真理そのものである生命が脈打つさまを直接体験していただろう。

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