魂へ捧げられていた瞑想が、集中の途切れや、足の痛み、自我のフォースの突如の強化により中断を余儀なくされるという段階がある。またもとの自我意識へみな帰るのである。ふるさとから、別のふるさとへと帰っていくのである。意識は低次のものとなり、考え方、感情のあらわし方もまた、世俗のものに近くなる。ふたたび、目をうしなうのである。いつ戻ってくるだろうか。数時間後の瞑想だろうか、明日の瞑想だろうか。それともわたしを忘れてしまうだろうか。

肉の意識に幽閉された魂は、肉の準備が整っているかぎり、呼びかけつづけるだろう。非人格の愛のなかで。そもそも、人格がないから愛である。人格と愛は矛盾している。愛は引力だが純粋な、自由なエネルギーである。だが人格は引力だが自由ではなく、積年の固定により強固となったフォースである。したがって、キリスト原理である魂の愛は、肉のフォースである欲求に効力という点で劣るのである。そして今日もまた、悲しみでしかない物質にわれわれは引きつけられ、自我の波に飲まれ、ドラマのなかで演じるのだろうか。あなたを。しかし「だれも、二人の主人に仕えることはできない。あなたがたは神と物質とに使えることはできない(マタイによる福音書6-24)」。

個人に自由はない。すべての動きと作用は法則のなかにある。すべてが動きのさなかで精緻に均衡を保ち宇宙たりえている。そこから逸脱し、独立したものが理論上ないように、個人や事象もまたすべて法則と宿命のなかにある。したがって、「明日のことは明日みずからが面倒をみる(マタイによる福音書6-34)」のであり、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい(マタイによる福音書6-33)」という選択肢が人格にまつわるすべてのフォースの否定のなか残ることになる。この否定が内なるキリストである魂意識への集中ないしは没入となり、法則と個人を超越し、その至福のなかで、「そうすれば、すべては与えられる(マタイによる福音書6-33)」という預言が成就したのを体験するのである。

だから、瞑想に進展がないと愚痴をこぼす自我に欺されてはならない。自我は欲求と獲得しか食欲を知らない。瞑想の進展を得ようとしているのは誰なのか。このような気づきが自我の動きを死滅させるのである。これは、秘教的に言えばフォースに対するエネルギーの正しい在り方である。この意味を簡略化させるため、ニサルガダッタ・マハラジは、「わたしは在る」という感覚に集中するよう言語化して勧めた。しかし言語は私的な観念として持ち帰られるだけであり、しばしば真の意味合い、つまり知恵ではなく知識として瞑想の邪魔をする。エネルギーは知恵だが、知識はフォースである。したがって、もっとも良いのは、段階を踏み、エネルギーとフォースに感応できる諸体を築き上げることである。そうでないと、知恵は知識でしかなくなり、意味をなさないか、あるいは有害となる。

やがて、瞑想を中断しなくてよい日が必ず来る。そのときの人間の反応はこのようなものだろう。「わたしの人生に帰らなくていいのか、戻らず、このままずっと、ここにあなたといていいのか」。これは魂が人格に勝利する手前に生じる出来事である。人間は、人間に帰らなくてもよく、カルマはあらかた解消され、ひたすら魂とともに存在してよく、いつまでも瞑想のなか、天の至福を享受していてよいことを告げられる。そして知る。彼は人格から離脱し、魂の愛に包まれる。しばしば瞑想中のヨギや聖者が涙を流すのはこの愛によってである。

キリストは、弟子のイエスを通して愛という知恵を人類に教えたが、人格である人類はそれを情緒的な愛、肉欲的な愛として解釈する段階でしかなかった。おそらく少数の弟子とイニシエートだけが、抗うことなく、愛の意味を知恵のまま受け取り、キリストが与えた途方もない愛のエネルギーによって刺激され、その言葉をこえた感覚に包まれたのである。しかし興味深いのは、イエスが十字架で事切れるとき、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか(マタイによる福音書27-57)」と言い、これまで信じてきた愛の源であった魂でさえも感覚的なものであり、真の愛の経路を限定するものであり、したがって超越され、破壊されねばならないものでしかないことを知ったときの反応である。

人類において究極の放棄である第四イニシエーションの悲痛が、最後の人格的なものから発せられた刻印をわれわれはここに見ることができる。そして、超越はつねに新たなる意識への参入と歓喜であり、さらなる高位のエネルギーの刺激を伴う。このときイエスは「渇く(ヨハネによる福音書19-28)」という表現で、新たなる意識のなかでの喜びの義務に希望を見出した。そしてモナドである霊のエネルギーから、イエスは物質とその宿命であった義務に対し、「成し遂げられた(ヨハネによる福音書19-30)」と告げ、現象的に死ぬことで、一切の人間性の死と、人間性の役割を果たした物質の死つまり贖罪によって上げられ復活させられたことを愛のなかで象徴したのである。

コメント

  • コメント (5)

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    • 高瀬
    • 2019年 1月 23日

    お久しぶりです。

    ご存知の通り瞑想初心者です。
    この記事を読んで
    この領域に、
    生きているうちに
    いけるのだろうかと、
    まだ見ぬ(感じぬ)世界に
    夢を抱きました。

    ある人に
    『瞑想に利益を求めてはいけない』
    と教えていただいたことが
    あります。

    またある人達には
    瞑想を始めてから集中が格段に上がって
    倍率の高い試験に一発合格した。

    瞑想の極限状態は
    性行為よりも気持ちいい。

    瞑想のメリットは….。

    などといった様々な
    変化や自分へのご褒美のような
    ものを感じるようです。

    〝それ〟を目的としてヨガを
    している人も
    数多くいるのではないかと
    思います。

    本来のあるべき場所への
    道しるべとして
    瞑想を使わせていただき

    道に迷った時には
    どんな場所でも
    行き先を導いてくれる
    瞑想に感謝しながら

    これからも続けていきたいと
    思います。

    長くなりすみません。

    主様のまたのご投稿楽しみにしています。

      • Author
      • 2019年 1月 23日

      瞑想の利益とは誰にとっての利益でしょうか。自我の終焉のための瞑想が、自我の利益をもたらすための瞑想になりうるでしょうか。瞑想とは、高位の合一以外、なにも求めるものがなくなった人たちの、妥協のない、険しい帰り道です。外界のメリットがデメリットでしかなく、理解によって、すべてが否定された人たちのものです。人の道での間違いが、葛藤と苦痛を通して正しい道を照らしだし、極度の苦闘を引き受け、彼らは瞑想の道に足を踏み入れます。瞑想により、自我を死滅させ、魂と合一することだけが、自我の最後の利己的な欲望です。自我の一般的な夢や希望、ご褒美というものを散々彼らは味わい、内包された激しい苦痛に膝を屈し、果ては立ち上がり、過ちを認識し、他の道はすべて人間的なものとして閉ざされ、踵を返したのです。彼らの特徴は、知的に、人間性に無関心なことです。コメント内の方々も、自分のための瞑想という矛盾に、いずれは気づくでしょう。

    • 高瀬
    • 2019年 1月 23日

    ありがとうございます。

    ブログ主様の言葉だけを今は頼りに
    間違ったやり方をしないよう
    真面目に取り組んでいきたいと
    思います。

    p.s.
    もうランキングには
    戻られないのですか?

      • Author
      • 2019年 1月 23日

      当初に書いていた内容・目的と異なることと、よかれと思ってこのブログのランキングを不正に操作していた方がいたため、バナーを外しております。

    • 高瀬
    • 2019年 1月 23日

    そうだったんですね😢

    このブログはたくさんの人に
    本当は読んでもらいたいですが😢

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