存在

敷居の住者

敷居の住者とは、本質的には弟子自身つまり自我であるが、ある進化段階に到達するまでは気付かれず問題にもならない。それは、メンタル・フォース、アストラル・フォース、エーテル・フォース、肉体のフォースの総和であり、つまるところパーソナリティーである。しかし、真に問題になるのは第二イニシエーション以降であり、したがって対峙すべきはメンタル・フォース、しかもその壮大なる総和であり、低位メンタル界が戦場になる。そのとき、弟子は霊的な存在(この段階では魂)を明敏に知覚しており、大なり小なり融合していることを肉体脳で常に意識しているが、依然としてマインドの覆いを通して世界を定義し見ている。それは自身による限定であり、分離のイリュージョンである。敷居の住者である弟子は、第二段階のイニシエートとしてメンタル体の統御を通し、住者の安定化に成功する。それは弟子が住者としてではなく、魂として存在できるようになったとき、真に成し遂げられるものである。このようにして、後の合一により敷居の住者は真我の光の中に吸収される。2022/12/04追記。

あるときから弟子は次の事実に気づくだろう。つまり、することがあると決めつけているのは自我であると。私は存在しており、目的も目標もないことを知るだろう。あると主張する思考は私ではない。思考は起きるが、それは私ではない。私は在る。ただそれだけである。私は、見られるもの、世界や出来事や環境に反応する思考と関わりがない。思考が描き出す過去つまり記憶も、思考であり私とは関係がない。肉体の動き、行為や活動は生じるが、それらに反応する自我は私ではない。私は背後でそれを観ている者である。

人は風景を見てきれいだと言うが、実際は、風景を見ている人も風景の一部でしかない。生命が肉体や思考といった道具を使用し、この文章を書いているように見えても、そこに書いている人はいない。それもまた眺められるだけである。ちょうど人が風景を眺めるのと同じように。鮮やかで厳かな色彩と景色に感嘆し、そこに美を感じる人間のように。かつて自分と思考され責任を感じさせられた肉体の動きも含めて、世界は静かで厳かな美のなかで完全さを表現している。器にエネルギーは流れ、器はそれに応じて動き、行為を為す。万物はエネルギーの器である。万物を生かし、振動させ、動かすエネルギーの源は生命である。生命は分割されえぬものであり、あの生命、この生命というものはない。それはただ生命である。あの人も、この人も、私も、生命である。

人間は、同一化という錯覚に浸かることで経験を蓄えてきた。大いなる目的の一部として、彼が十分経験したとき、つまり錯覚が錯覚として彼を捉えられなくなりはじめたとき、彼は錯覚からの自由を願い始める。彼は人間ならざる彼方の存在、全ての錯覚から解放された存在を前方に認め、自分もそうなりたいと願うのである。彼は瞑想する。そしてフォースを統御したり、直観や純粋理性を使用したりして、錯覚つまり存在するように思われたものの非実在性を実証し、それが自分を支配できず、支配するのは自分であるという主従の逆転へと至る。

第二イニシエーション以降、秘教徒が敷居の住者と呼ぶ最悪のものと対峙するとき、彼は彼自身が錯覚であり、彼自身が住者であり、彼自身が何かに縛られているという錯覚を持つこと自体が障害であるという事実に向き合うことになる。彼はすべての真剣さを失う。辿るべき道が失われる。彼の熱誠はいまや障害でしかない。道も、動きも、彼にとっては障害でしかない。彼は、自分と思われた肉体、精神、思考、感覚、すべてが生命によるものであり、自我という錯覚によるものではないことを成し遂げてきた魂との融合の中で知っている。私は景色のなかに消え去らなければならない。私は生命の中に生命として生きねばならない。独立は統一のなかに没し去らなければならない。人間は、私は、真我の光のなかに消え去らなければならないのである。

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