瞑想

新生

誰が瞑想をするのでしょうか。例えば、以前の例で言いますと、肉体で生きながら不食を願う矛盾。肉体で生きるなら、この世の食事が相応になると申します。瞑想もまた、肉体で生きながら、内なる存在に招き入れられることはないと言います。ラマナ・マハリシを真似て「私は誰か」と肉体意識で問うても体験できぬことを私たちは知ります。ニサルガダッタ・マハラジを真似て「私は在る」と唱えても長続きせぬことを私たちは悟ります。理論は知識にはなりますが、体験には導きません。新しく生まれかわってこその体験と知るのであります。

それで、私たちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとは思いません。だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものが過ぎ去り、新しいものが生じたのです。

コリントの信徒への手紙二 5-17

本や教えは、確かにこの世界へ目を向ける最初の頃は必要かもしれません。しかし、それ以降は逃避だと思います。「今はもうそのように知ろうとは思いません」。一人ひとり、全てが違います。万人に共通する手段は錯覚として過ぎ去ります。何が本物を教えるでしょうか。何が内なる存在を体験させるでしょうか。全部目の前にあることを知ります。現在の私が現実です。現実を無視して飛躍はできません。現実が錯覚となるためには、現実が見られねばなりません。知識は錯覚です。目の前が知恵です。ここに気づける私たちを祈るのであります。

存在へ

知識は想念です。真の存在は私です。存在の体験は法則が決めます。私たちが相応の波動で振動する器であるとき、波動の一致という法則の下、意識拡大は必然です。

体験を求めてはなりません。目の方角が異なります。見るべきは現実です。錯覚を見、錯覚を感じ、錯覚に縛られている、波動の低い、この私です。それは知性では見えません。到達した意識に応じて、その高き意識が、その高き存在としてそれを感じ見ます。そこで初めて「私はそれではない」と見破るものではないでしょうか。けっして肉体意識ではありません。

変性

低き波動を食す我から、高き波動を食す我であるとき、感応のための質料は変性いたします。悪しき身口意を表現しながら、高き振動と一体になることは矛盾です。書物や知識への逃避から、現実の実践に立ち返るのは勇気がいります。しかし、その意味と価値を理解するなら、むしろ、日常から低き波動を許すことが出来ないと思うのであります。

これほど進歩を速めるものがあるでしょうか。正しく生きる。現実の私から逃れた者はおりません。その者の現実が教師です。私たちの波動、私たちの意識のあらわれでしかない現実を、高き波動で生きてみてください。あちらから勝手にやってくるではないでしょうか。正しさへの素直さ、正しさへの純朴さを生ききる時、新生は約束であり、新生はすなわち即時の体験であると思うのです。

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コメント

  • コメント (2)

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    • たまやら
    • 2022年 10月 06日 4:29pm

    実践、経験していないと語れないことばかりでただただ感心して毎回読んでます。ラマナマハルシの名前が出て嬉しかったです。

      • Author
      • 2022年 10月 06日 8:18pm

      参考になれば幸いです。

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