むかしの話

星空のヴェール

白ゆりの花を愛したきみが、いまなぜ夜叉の仮面をつけているのか知らない。憤怒に口を歪め、肩をいからせ、背中に般若の思想を描き出し、おのれに逆らうもの、おのれの価値に目を尖らすものに対し、容赦のかけらはなく、血染めの畏怖を示し抜こうとする狂的な執心、これに関してはなにも言うまい。ただ、こうこうたる夜の星空をみつめては、精神の陶冶に余念なく、はかりしれぬ神秘を見つけて、ひとり目を瞑っていた、あの孤立的な高潔、そして魂の品格をちりばめていた、少年時代のきみのすがたをぼくは覚えている。「何を考えていたのか」ぼくは問いかけた。きみの答えはいまこの場にふさわしいものだろう。

「いや、ただ見ていただけだ」

あえて言うが、きみは悪いことをできる人間ではない。父親から、棺のような冷たい目で、おまえは馬鹿だと、そう言われつづけたのは知っている。加減を知らぬ獣のこぶしが数えきれぬほど、きみの可鍛的ともいうべき顔と脳髄に痛みを、そして心と魂に憎悪を与えつづけたことも知っている。だが一方で、村の酒場であったわが家にあって、おのれのこぶしを見つめ、ひとり焼酎を喰らっている、きみの父親の涙を見かけたこともある。どうしようもないおのれの獣性をさげすみ、父親にされてきたことをいま子供にしているのだと、みずからに死刑宣告を下すよう、よれた口調でおのれに向かってつぶやいている、あの情けないほど弱い生き物のすがたを知っている。

きみは見ることをやめてしまったのだ。父親からの虐待、そして貧しさと空腹、バラックの家へ帰るときの後ろめたさ、こういったものから抜け出すため、星空の神秘から目をそらし、金と権力を掴みとるため、肉体にほとばしる鍛造された力と、生来の強靱な頭脳の、あらんかぎりをつくし、悪魔に魂を売った。そして苦しんでいる。疎遠となったいま、きみがどのような顔を持っているのか分からない。だがあらかた想像はつく。

病院では、看護婦のさしのべる手にさえ狼の目つきでもって応じているのか。薬をはねのけ、医師の顔には脅しの言葉で接し、あげく、唾を吐きかけているのか。手のつけられない、度しがたい反抗者として、希望をむしりとるべき犯罪者として、贖罪の檻のなかに入れられているのか。最後の望みであった自殺にさえも見放されて、子供のころ、裂けたくちびると赤い歯茎の奥からもらしていた、あの名状しがたい苦痛のうめき声を、いまも闇の中でもらしているのか。

だが、闇のなかにこそ光があるのではなかったか。星々の光は闇のなかで神秘を隠していたのではなかったか。きみが闇のなかにいることを不思議にも残念におもわないぼくの感覚、むしろ幸いとさえ思えてくる感覚をきみは理解してくれると思う。きみは星を、そして光をただ見ていた。そこにあった神秘のヴェールは、きみじしんの魂が剥ぎ取ったものなのだ。きみの純粋さが、星々と魂をむすびつけ、深遠なる宇宙のリズムのなかで幸せに踊っている、あの溢れんばかりの交流感、一体感を覚えているだろう。いま星空の幸福を覆い隠しているヴェールはきみの邪悪な精神だ。それがきみの闇であり、ただ見るべきものなのだ。しかしその果てに待っているもの、いや襲いかかってくるものは、まばゆいばかりの光であり、きみじしんである魂であり、一と全であり、少年のころにきみが知っていた唯一の神にちがいない。




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コメント

  • コメント (1)

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    • 高瀬
    • 2018年 10月 20日

    多彩な景色が浮かぶストーリーに、いくどとなく引き込まれ、登場人物の全てが主人公になる筆者の物の見方に感化されてしまいます。

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