苦痛

最期と最後に

病気と一口に言っても様々なものがあり、同一の病名のなかでも原因において多岐にわたるため、治療家が概念の世界で行動することはない。治療は言葉のあずかり知らないエネルギーの世界の話である。なにごとも結果の世界での抵抗は静かに終えられるべきである。このブログの原因となった友人の病状は彼において適切であった。この適切さが最終的な場所、よりよい故郷へと彼を引きさらった。この意味においても当初の役割は終えられている。テーマは苦痛の緩和、苦痛を通しての病気と治療への理解、苦痛のない意識状態、これらに関する比較的幼稚な解説、というものにとどまった。率直に言えば、苦痛がないことを良しとするのもまた個人でしかない。こうした反応もまた限定の壁であり、オカルト的に嫌悪感の対象である。この嫌悪感というものは、盲目が生み出す無意味なエネルギーの衝突が引き起こす苦痛に対する個人の反応である。個人つまり人間たちがみな異なる状態と段階にあるのは見ての通りである。人間以下の者もいれば、人間である者もおり、人間の性質を超越している者もいる。どのような段階であれ、すべて意識の違いを示しているにすぎない。錯覚を錯覚と気づく装備のない意識状態のとき、彼ゆえのその世界において、苦痛は地獄である。しかし、錯覚に限定されていない意識状態においては、個人の苦痛というものは興味深いものではない。事実はときに厳しいが、自分の苦痛というものに関心があるのは彼の責任である。その未発達な意識状態を脱する必要があるということを彼に教えているだけである。この問題についてこれ以上書くことはない。したがってこのブログはこれで終わる。苦痛をテーマにする必要はもはやない。手段においてもまた、書くということが適切であるものに関わる時間を割くか分からない。これは関わりのある人たちへの言葉である。いずれにせよ通達したいと思っている。

コメント

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    • 2019年 2月 11日

    一読者だが残念。仕方なくコメントする。

    私は一介の弁護士にすぎないが、途中で弱者を見捨てたことは一度もない。
    しかしこの終わり方はさながら中途放棄、形而上的弱者を見捨てたかの印象を受けた。

    「関わりのある人たち」とは誰だ。我々は関係ないのか。

    コメントをしなくとも熱心に読んでる者もおるだろう。
    単なる読者は蚊帳の外という意味なのか。

    貴殿の主張通り、我々の学問は知識であろうし、
    仕事柄、問題とばかり付き合っておるが、様々な意味で限界を感じている。

    そのような中で私は生きる事にも限界を感じた。
    そんな時の検索でたまたま貴殿のブログを見つけて感銘を受けた。

    それから熱心に読んでいる。
    数日前、多くの記事が削除されたが、これも裏切りのように感じる。何の告知もない。
    私はネットより書面で読むのに慣れているため全てダウンロード?して紙で読んでいるので問題ないが。

    私は貴殿の言う初心者である。
    弱者を見捨てないようにすべきではないのか。
    少なくともこの突然切り落とすような常識を疑わせる終わり方には唖然とさせられた。

    意見、反論、私が納得するまでお聞かせ願いたい。

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