瞑想

本物に習う

派手を好むは自我、地味を蔑むも自我。大きくならんと欲するは自我、小さく在るは真我。

スポーツを教える時でも、本物に基づきたい。だから「基本」とその反復練習に多大な時間を費やす。瞑想も同じで、瞑想よりも心構え、基本姿勢に重きを置いている。スポーツをする者も、自我ゆえ、はやく派手な動きを習得したい。基本は退屈かつ初歩的で面白みがないと主張する。教える者も、基礎ができていないのに教える。その方が儲かるから。その方が喜ばれるから。その方が人気を得られるから。これは、教えているのではなく、自我に媚を売っているだけである。

瞑想の得意な者は、基本が出来ている。心構えが美しく正しい。おのれを知るがゆえ、小さく、謙虚で、目立たない。一方で、瞑想に向かない兄弟たちは、サマーディや真我実現など、派手へ派手へと心が浮ついている。書物を読むときも、自分の間違いを学ぶために読むのではなく、自分の利得のために読もうとする。足し算には喜び、引き算にには不快を示す。これは仕方がないけども、そこに絶えず気づいているかいないかでは大きな差が出てくる。

瞑想の初歩は、大きくならんと欲する自我の動きを知ることである。手に入れるもの、到達すべきもの、これらが錯覚であり、いつもの自我の誘惑にすぎぬことを知ることである。自我はなお抵抗するだろう。抵抗して良いのである。瞑想で何を自我が画策し抵抗しようとも、すべて失敗する。結局はおのれ。首謀者である私自身と対峙せねばならない。そしてこれを悟るのも自我なのである。このように見つめゆくことが探究であり、静けさへの道である。

視力矯正

たとえば、私たちが自分の発達に固執し、自分の進化を信じているならば、落ち着く必要がある。そのようなものはない。私たちは全体の一部であり、私たちは全体のために存在している。自我崇拝は、つまり悪魔崇拝は、しばしば一回の短い生涯に必要以上の意義と期待をもたせる。個は、執着により、近づいてしかものが見えないときの解釈でしかない。落ち着いて静かになるならば、そこへ高い波動が舞い降りてきて、全体の一部である自分の動き、自分の生涯の全てが、唯一なる生命の一部としての全体奉仕へ向けたものであることを理解するだろう。徐々に、「自分」という感覚から、「私たち」の感覚でものごとを捉えられるようになるだろう。そのとき自分の進歩は、全体のためのものであり、兄弟の苦しみ、同胞の罪、姉妹の解放のための進歩である。したがって、同胞愛、兄弟愛、全体愛の成長が、私たちにおける進歩の定義である。

自分の利益や自分の苦痛のために瞑想する者は、この基本姿勢に目醒めることで、その強迫観念を解放することができる。「”助けて”ください」ではなく、「”助け手”でありますように」であり、その動機は、地上の同胞たちの叫びである。けっして、他人を助ける自分というグラマーではない。自分という感覚が一気になくなれば楽なのだが、道の途中まで私たちは自我として苦闘するため、早めにこのような通常の視野に自分を引き戻しておくことが重要になる。

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