苦痛

死の覚悟

第三イニシエーションの準備期間、おそらく個人における最大の、言語に絶する苦痛のきわみを一時的に経験するはずである。これは第一と第二のあいだに経験する激しい情緒的な苦痛とは異なる。高位我の力が優勢になるとき、目が機能し、これまで放置してきたグラマーやイリュージョンが身をもって明白となり、その罰を個人の人生において苛烈に受ける。言い換えると、最も抵抗の多い線に直面することになる。したがって、個人においてきわめて困難、あるいは登攀不可能にすら思える、何らより所のない壊滅的な心理状況の壁を経験する。この贖罪の過程は意識的なものであり、完全に意味を理解したうえで受けるものになる。この苦痛は、乗り越えさえすれば第三イニシエーションへの歩みを加速させるが、答えを見つけるまで、個人は運命のなかで盲目のまま苦しみ、呪わしいまでの苦悶を独自の力で耐え抜く必要がある。

相変わらず、これは低位我と高位我、つまり個人と魂という二重性の争いであるが、最終幕に近づいている。決断をはっきりと迫られる生涯であり、真剣さの証として死ぬまで専心を試されるイニシエーションでもある。このとき弟子が最初に感じるのは、よく知られたニーチェの「あなたが出会う最悪の敵は、いつもあなた自身であるだろう」という言葉にあらわされるものであるが、意味としてはよりオカルト的なものである。彼は何が個人的なものであり、何が個人を超越したものかを意識しながら、注意深く、自身を構成するフォースへの対処法を学ぶ。目は具体から抽象へと向かう。意識は肉体からエーテル体へと移行する。たえず高位我に波長を合わせ、諸体を整列させることで、目を通し、暗部へと光を投射する術を習得する。これは個人の観点からすれば自動的なものであり、高位我の力によるものでしかない。次第に個人の意識や感覚は薄れ、高位我である魂の感覚が逸脱を許さない決定的なものとなる。

すべてのイニシエーションは「死」の覚悟を伴い、実際に死ぬ。敷居の従者との戦いにおいて、弟子は個人を完全に犠牲にする覚悟を決めなければならない。それは初期段階において、プライドの死であったり、欲求の死、依存の死、習慣の死、情愛の死、自身に対する興味の死であったりする。絶頂を知る者が奈落を平然と歩けるようになる矯正の道であり、信念や思想といったより所をさえ処分しなければならない、死滅に次ぐ死滅の道である。この期間に弟子が敗北するとき、それは個人の生涯において悲惨な死を伴う可能性が高い。なぜなら、彼は世間や大衆に引き返せないため、霊的な孤独のなか、最悪の苦悩とともに死ぬからである。

意識において個人感覚が強い場合は、ために、決して過信は許されず、期間を違えた息抜きも許されない。ただ自身とともに在ることに専念し続けることが道となる。困難のあまり、アストラル界に逃避したり、低位メンタル界で怠慢を許したりしてはならない。ただ瞬時に罰を知るだけである。無意味な繰り返しをやめて、極端な人生であることを覚悟し、一般常識と平均的な人々との関わりはおそらく保ったまま、内的には孤独の純血を守り、つまり周囲とおのれのフォースを注意深く見守ることに怠りなく、「存在」へ身も心も捧げなければならない。あらゆるものが否定された結果、弟子は否応なしに、この贖罪の道を強制されるのである。

個人意識からの抽出を大なり小なり習得したあと、その段階に応じて、弟子はその途方もない愛、静けさ、美、そして至福を知るだろう。道は容易になる。道という錯覚は理解によって消え去る。死という犠牲の美しさだけが、聖者の涙として、ある意味抜け殻と化した人間の頬に結晶化されるだろう。

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