イリュージョン

水のあわ

師が弟子を叱りつけた。そして「今どのように感じているか」と弟子に尋ねた。すると弟子は答えた。「人格を否定されたように感じます」。

これは霊的なブラック・ジョークである。とはいえ、ジョークにしては鋭利であり、赤面や失笑では済ましきれない痛烈な寒さを与えてくる。人格とは何なのか。人格である私、この感覚は何なのか。それは感覚なのか、それとも別のものなのか。それは調べられたとき、存在するのかしないのか。そもそも、人格でして人格を調べることなどできるのか。マインドの目でマインドを見ることはできるのか。とするならば、世界の一切の目撃者であるこの第一人称はいったい何であるのか。

愚を悟るとき、「人」は「大人」しくなる。まがい物が破壊されるとき、もとよりそこにあったものが真実となり、人は大きな人になる。しかし、人は人格の覆いを通してしか、森羅万象を閲覧できない。この事実は、世の一切が性質的にイリュージョンであることを教えている。まがい物である。人格を通して見られるもの、認識されるもの、認識そのもの、思考、思考者、イメージ、その流れ……すべては「ただ水のあわにぞ似たりける」。

ほど遠い現在

人格は、マインドは、私は、すべて動きである。動きとはなんだろうか。川の流れとはなんだろうか。「水のあわ」を見た瞬間、それはすでに存在しない。私たちは見たと言うが、はたして見たものは現実だろうか。過去の記憶を述べているだけであろうか。そもそも「現在」を見た人はいるのであろうか。「見る」ということ自体が、性質上、「過去的」ではないだろうか。肉体脳の限界や錯覚の鍵は、時間にありはしないだろうか。間断なく過去に生きることが人間の条件ではないだろうか。

これが、逃避の実態である。冒頭のジョークがジョークたり得ない所以である。私たちが人格を否定されて不快に思うのは、人格を生きており、人格のために生きているからである。人格を壊しに来るものは、すべて不快なのである。そして、人格という動きは、つねに時間の中にあり、時間を利用しなければ存続できず、したがって現在から逃げているのである。私たちが生きたいのは、現在でも真我でもなく、過去であり、時間であり、人格である。その願いは叶えられている。

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