エネルギー・波動

求めること

人が何かを求めることは恐ろしくさえ見える。結末は苦痛だからである。もっと恐ろしいのは、人が、なぜ何かを求めているかを知らないことである。この兄弟たちが道に入るためには、あとどれだけの苦悩をくぐり抜ければならないのか、あとどれだけ「他人」を不幸へ追い落とせば事足りるのか、この辛苦のヴィジョンにはある種の悲しみがある。

求めるとは、引力に従っているだけである。引力の源に関する知覚があるならば、結合の過程を知ることができるし、同一化を防ぐこともできる。たとえば、悟りを求める兄弟たちを見かける。悟りという概念が魅力的であり、それが引力たりうるのは、君にとってなぜだろうか。ここを理解しておくと何かに気づくかもしれない。無意識に求めないほうが良い理由を知るかもしれない。ゆきつく先が苦痛である理由を知るかもしれない。

求めること、つまり欲望を控えるように教える兄者方がいる。この理屈は分かるが、支持することは難しい。欲望は抑えられない。欲望をしっかり見るならば、それは概念ではなく、エネルギーである。頭の中に生きるとき、概念に支配される。感覚を優先するとき、エネルギーを捉えることができる。そしてエネルギーを見ることができる。見る者は、すなわち許す者である。「欲望を控えるように」とは言わない者である。そのエネルギーは在る。それは自然に在らしめればよい。それに抵抗するときのみ、エネルギーは怒るのである。私たちがただ見るならば、そこには調和しかない。

聖典や仏典というのも恐ろしい。たくさん、しなければならない事が書いてある。たくさん、してはならないことが書いてある。読めば理屈をひもとく事は可能かもしれないが、支持することは難しい。私たちは、ただでさえ疲れ切っている。書いてある通りにやろうとしてきたかもしれない。しかしどのような道を歩んでも、見つけるのは苦痛だけである。それで、静かになったのである。耳を貸すこともしなくなったのである。すると、ああ、最初から何もする必要はなかったのだ、そう思えるようになったのである。だから、求めるということは恐ろしく見えるのである。これ以上、何かをする必要がないことを知っているのである。

君は何かを求めているだろうか。求めるエネルギーがあり、求める最中に問題がないのなら、それはそれで良いのではないだろうか。求めた結果、何かを手に入れ喜ばしいならば、それで良いではないだろうか。求めた結果が、やはり苦痛でしかなかったならば、それもまたそれで良いように思える。そのような物語ばかりが世界では映し出されている。おそらく、今日も映し出されるのだろう。しかし、それを観ているのは誰なのだろうか。なぜ、私は観ているのだろうか。誰の物語なのだろうか。おそらく、それを求めている誰かがいるのだろう。

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