エネルギー・波動

波動実験

瞑想者を二つに分けることができる。例えば雑念に対して。自分で抑制しようと試みる者。次に、高き波動に任せる者。前者は、自我である自分の力をまだ信じている。後者は、低き波動(雑念)に低き波動(自我)で抗う愚を知っている。ゆえに、高き波動を招き入れることを全てと見なしている。大きな差がここに出はしないだろうか。

科学者の眼鏡

ある科学者がいた。彼は特殊な眼鏡を開発した。エネルギーが見える眼鏡である。これは聖人のエーテル視力に頼る必要がないものとして、また、覚者方が語る言葉を証明するものとして一部から喝采を浴びた。特筆すべき彼の報告によると、良いエネルギーが入っていく者と、どうしても入らぬ者がいるとのことだった。科学者の眼鏡はエネルギーの流れを見ることができた。しかし動きの理屈は分からなかった。

そこで二人の人間に面会した。高いエネルギーのよく通る者と、低いエネルギーしか通らぬ者。この二人を研究目標と定めたが、研究するまでもなかった。会って話してみて、前者は明るく良い人間であり、後者は暗く不快な人間だった。これは理屈の仮定を科学者に与えた。

それで科学者は自らを実験台とした。三分間、できる限り崇高な思考を巡らし、愛や思いやりといった健全で美しい想いを描くことに専念した。次の三分間、その逆を行った。計六分間、通しで行われた様子は撮影されており、科学者は映像で振り返ることができた。そして見た。高き波動は、正しい思いを描く時にのみ入り、悪い思いを描くときには入れぬという現象を。また、思いからつながる言葉、行為についても実験をしたが、同様の結果となった。しかし、この発見は話題にならなかった。あまり世間の関心をそそるものではなかったのである。

八正道

比丘たちよ、聖なる八正道とは何か。それはすなわち、正見(正しい見解)、正思惟(正しい決意) 、正語(正しい言葉) 、正業(正しい行い)、正命 (正しい生活) 、正精進(正しい努力)、正念(正しい思い)、正定(正しい瞑想)である。

全ては自己実践。そして、全ての霊的偉業を為すものは、低き我ではなく、高き我。つまり高き波動に浄められた器にのみ入りうる魂である。仏陀の与えた八正道は、エネルギーの科学の根幹をなすものであり、合一のための準備を器に整えさせる高貴なる指針である。最初は、指針を信じ従うだけである。指針は高位の波動を人間にもたらす。これに気づく感受性が最初はない。しかしすぐである。波動と接触し、自分が高き波動を引き入れうる器になったことをその時知る。それはしかし序盤でしかない。より高き波動、より多くの波動を引き入れうる己へと鍛え上げねばならない。これを意識的にやれるようになるのである。

波動は意識(の原理)である。高き波動は人類の知らぬ意識を人間に体験させる。人間意識、自我意識を超越せんとする者は、意識を求めるのではなく、まず波動を求めるものである。だから瞑想は、自分の創り上げた概念や想念形態への献身ではなく、波動というリアリティーを、いかに滞りなく健全に流入させるかの科学である。我々においては、魂の波動を意味している。なぜなら、最初に接触する霊的な波動は魂の波動だからであり、最初に合一すべきは魂だからである。ここを徹底して研究し、我々は自ら実証してゆかねばならないのである。

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コメント

  • コメント (5)

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    • 2022年 10月 15日 12:24pm

    質問させて下さい。

    例えば嫌な事が起きた時、感情は激しく振動します。

    その感情と共にあろうとする事と、本来の自分がその感情とは無関係であるという2つの教えがよく整理できていません。

    前者は感情に目を向け、後者は魂に目を向けようと試行しているので、全く違うベクトルを向いているのではと混乱しています。

      • Author
      • 2022年 10月 15日 12:46pm

      前者:魂のエネルギーが自我を通り、より純化された自我は、意識的にエネルギーを感情に差し向けます(見ます)。すると、あったはずの感情がそこにはなく、そもそも存在しなかったことを知り、錯覚に惑わされぬ自分を獲得します。

      後者:前者の状態が深まる時、すなわち魂がパーソナリティーをより深く掌握した時、主観はより魂になり、あらゆる低位のものに反応できなくなります。私と関係ないと感じるのです。前者の作業はその時自動のものとなっています。

      前者はより自我の意識から、後者はより魂の意識から、という見地の違いです。この質問は、双方を純粋な自我の観点から解釈した時に生じたものと理解しました。不可解な点があれば教えてください。

    • 2022年 10月 15日 2:47pm

    回答ありがとうございます。
    整理ができました。

    純粋な自我でしかない私は、両方の試みに対して成功した事は一度もありません。

    そのため、前者の見るということに対しても何も変性が起こらず、ただ嫌な気分を味わうだけですぐに逃避してしまう現状です。

    動機にみちた観察から、より魂の状態へとこじ開けるためのヒントが、記事の中に散りばめられていると感じています。

    ありがとうございました。

      • Author
      • 2022年 10月 15日 3:41pm

      成功させましょう。
      特に前者の試みは、自我意識に近い状態でも可能であるため、強調しております。
      最初に成功するのは瞑想中です。その後、日常でも出来るようになります。

      秘教的な言い方をすると、フォースに対するエネルギーの賦課です。行使と言ってもいいかもしれません。頭頂から魂のエネルギーが入り、眉間から、感覚を感じるハートへ向けてエネルギーを差し向けます。自我の憂鬱な低い波動のまま嫌な気分に接触しても、変性しようがなく、むしろ対象を強めてしまいます。高位のエネルギーを取り入れること、取り入れられる器であること、ここまでが一つの闇で苦闘の浄化の道であると思いますが、成功しうるため、可能な限りの角度から書こうと思っています。気にかかることがあれば遠慮なく仰ってください。

    • 2022年 10月 15日 6:00pm

    ありがとうございます。

    明確な道標が見えたような気がします。
    鼓舞された人生をどのように証明して歩んでいけるかは、全く自信がありません。

    ただ、それが孤独な道だと思っていましたが、勘違いであった事にやっと気づかされました。

    お返事ありがとうございました。

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