エネルギー・波動

流離人

喜ばしい事象に浮かれている人がいる。苦々しい事象に苦悶している人がいる。双方の事象と関係ない人がいる。最初の二人は「役者」であり、最後の一人は「魂」である。

内なる魂を体験したからといって、起こりくる事象に変わりはない。自我の観点からすれば喜ばしいこと、悲しいこと、苦しいこと、これらは変わらず起きる。それらの事象と関係ないと言わせるのは、合一している魂の感覚からである。それはマインドの領域を超越しており、隣接していない。そこには完璧で壮大な防護壁があり、三界の低位のものとの断絶がある。この領域へ至るために、マインドの山々や谷や水辺を跋渉する必要はない。そこは永遠の可能性にして渇望、満たされ続けぬ岐路でしかない。この認識に至った者だけが、道を疑い、歩みを止めて、周囲の現実感に目をこらし、見られているものの背後、結果ではなく原因へとつながる不可視の通路を発見するのである。

啓発

錯覚に安住していたことを、そのとき我々は知る。自分が自由ではなく、囚われの身であることを感じる。自分が目に見えぬものの影響下にあり、それらに条件づけられた自動装置でしかないことに気づく。そして明らかに、死人の抜け殻と同様、この道具は「わたし」ではないと結論を下す。

道具を詳細に見るとき、肉体があり、肉体の支配要因としてのエーテル体があり、情緒性質の感応・表現装置としてのアストラル体があり、同じく思考や精神活動を表現する(低位)メンタル体がある。これらの体は、いずれもエネルギーの伝導体であり、各々の体に応じたエネルギーの流入と流出のための器であることを発見する。また、器を精製し純化したとき、より高位のエネルギーに感応できることを知り、低位エネルギーの支配からの脱出口をそこへ見い出す。こうして、これまで「自分」とぼんやり見なされていたものを明瞭に見て感じるようになり、霊的に現実的になる。無意識はより意識的になる。ふらつきと無目的は解消され意志を体現しはじめる。責任感が芽生え、見えるようになった眼に応じて識別を揮い、限定された小さな自己から全にして一の大いなる自己として愛と知恵を放出しはじめる。人間は通路としての役割を得て、静かになり、真の自己である魂へと撤退しはじめる。

起きて歩みだす

このような「認識」の中を生きるとき、少なくとも以前より進歩したことを知るだろう。確固たる認識が一年を通して働いたとき、以前の自分を覚えておらぬだろう。五年、十年であればなおさらである。苦悩に沈んでいた者は、当時の感覚と一体化できないため、思い出せないだろう。より現実的なのは、兄弟の苦痛になるだろう。なぜなら、全てが完成してはじめて完成だからであり、自分の進歩や完成は真の完成のための部分でしかないことを知っているからである。そのとき、個と全のあいだを潤滑に流れるのは愛であり、あれとこれをつなぎ合わせ、全体のことをわたしと呼ばせるのも愛であることを感じるだろう。なぜなら、人間の目標は、より高位のエネルギー、つまり第二様相であるブッディ・エネルギーへの感応(流入)と物質界における完全な体現(流出)にあるからである。

このような高位の流入が、新たなる意識を体験させるのである。したがって人間は、現時点で自分に流入する諸々のエネルギーを最初に突き止め、同時に、偏極している界層を知り、より「高品質」のエネルギー流入を目指さなくてはならない。概念で取り組む場合は、欠点や悪癖の特徴を知り、より高位の理想に集中し、それを体現することを目標にすることになる。最もシンプルかつ強力なのは、正しく生きるために、自分やその執着物を放棄し、たえず万人に愛で接することである。すなわち、愛の想いを思考し、愛の言葉を発し、愛の行為を利益なしに行う努力をすることである。これは知的な作業であることを忘れてはならない。なぜなら、ヘッドとハートは等しく進化せねば意味をなさないからである。これ(流出)が、正しい瞑想(再調整と流入)と共に行われたとき、自覚的な生き方を鼓舞し、より高位のエネルギーを招来し、未踏の意識を体験させる最短の道となる。

※この記事は混乱を避けるためにエネルギーとフォースの区別をつけずに単純に全てをエネルギーとして書いている。

失敗 -錯覚と偏極-前のページ

感情からの自由次のページ

コメント

  • コメント (0)

  • トラックバックは利用できません。

  1. この記事へのコメントはありません。

CAPTCHA


カレンダー

2022年12月
 1234
567891011
12131415161718
19202122232425
262728293031 
PAGE TOP