弟子道

混浴

昨日、あるオフィスのソファに座っていた。話は終わり、しばらく外の景色を眺めつつ、居眠りをしたふりをして、瞑想していたのである。すると、仕事の合間のおしゃべりが聞こえてきた。声から察するに、肉体は私より二十も三十も年嵩だろう。温泉に行ったら混浴だった、という話である。それは本当か、ならば次は私も行かせてもらおう。聞かされた男は興奮ぎみに応答する。私は、すでに魂浴中であったため、この黄金風呂にて崇高なる静的エクスタシーに交わっており、兄弟たちがはやく性欲を卒業できるように祈った。だから、この黄金風呂こそが真の金浴であり、禁欲は間違いだと言うのである。欲望というエネルギーは、エネルギーという性質上、抑えることはできない。変性するか、別の方向へむかう欲求になるかのいずれかである。低き話に交わらず、低き読み物に目を触れさせず、絶えず高貴なものへと心を向かわせよ。魂を求めよ。内なる静けさを求めよ。これこそが真の静欲である。人間のエクスタシーはきたない。それは物質のものである。私たちは物質ではないゆえ、そのような退化の引きつけから自由でなければならない。ひとたび、魂を感じたならば、そして魂に浴する習慣がつくならば、この世のどのような欲望も魂欲には勝てない。むしろ、魂浴以外は、すべて苦痛であることを知り、少しでも暇があれば魂浴、少しでも世のけがれに感染したなら魂浴。このように、こまめに魂浴にてすべての体をきれいに掃除することが何より大切なのである。

たとえ魂を感じなくても、自分が従うことのできるあらゆる規定に日常から進んで従い、また正しい心構えで瞑想を続けるならば、感じていなくてもそれは魂浴である。瞑想前と、瞑想後の違いを感じるはずである。それが魂浴の効果である。ラジャスやタマスは静まり、サットヴァ性質がより自らにおいて生き生きとするのを感じるはずである。真剣に瞑想するならば、すぐに魂の波動が頭部の上半球を満たすようになり、その後、ハートにて輝けるばかりの魂を体験するだろう。それは必ずしもサマーディである必要はない。それより遥か前の段階から、我々は魂浴の美しさを感じることができる。だから、遠い先の話ではないことを信じていただきたい。その一歩手前までが暗闇で、遠く感じるだけである。魂は見放さない。魂浴を好むものを魂は見放さない。この事実が多くの傷ついた兄弟たちを癒やすことを願うばかりである。

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