意志

真の明け渡し

弟子の意志薄弱について。これは明確に、行為者の感覚を持つ者が受ける罰である。つまり、自分の意志という感覚が、神聖なる唯一の意志を阻害している。弟子は、「自分の」とか「私の」という言葉の使い方に注意深くあるよう初期段階で教えられる。であるならば、「私の意志」とはなんだろうか。ここに大きなヒントが隠されている。「私の意志」とは、実際は真我の意志の妨害である。つまり摩擦であり、それゆえ努力には苦痛が付随するのである。ゆえに、努力とは、自我の誤解釈がもたらす夢想へ無意識に付き従う意志の不正使用であり、生命エネルギーの無駄遣いであり、自我の暴走の一部である。瞑想に努力が通用しないことで、我々は「私の意志」が間違いであることを知っている。これは日常のあらゆる位置にて適用されねばならない。「私の意志」はない。この認識がはじまりである。

「私の意志」が終わるとき、神聖意志が、妨げられることなく表現可能になる。自我は、神聖意志が為すこと、つまり行為を目撃する者になり、あらゆる「私の主張」から自由になることができる。行為するよりも、それを見ることの方が、”まだ”正しいという結論を下す。”まだ”と言ったのは、まだ自我だからである。つまり、正しい在り方、正しいものの見方へ矯正しようという「私の動き」でしかない。しかし、「私」として純粋に活動していた頃よりは、遥かに摩擦が減ったこと、自由になったことを自我は理解するのである。同時に、静かになったことを知るだろう。ラジャスやタマスの除去作用が始まり、生き生きとしたサットヴァ性質を感じるであろう。そして、静かであるからこそ、見ることができることを知る。彼はもはや盲目ではない。無意識でもない。彼は静かであり、見ることができる。この結合の拒否、同一化の拒否という意識的な流れが、我々をやがて統一へと解消し、分離意識のない魂意識への参入を可能にするのである。これを秘教徒は変容の第三イニシエーションと呼んでいる。

別の角度から見てみる。霊-魂-物質という基本的な三つ組は、意志-愛-知性に置き換えられる。ここで表現される言語は辞書の定義と異なり、より秘教的なものである。人間は物質である肉体を自分とみなし、知性原理を自分の精神活動として認識しながら生きている。この局面が終わりに近づくと、肉体は瞑想をはじめ、魂との合一を求めはじめる。肉体脳が表現する知性は、自我の道具ではなく、妨げられない愛の道具にならなければならないことを理解する。この文章は、個が、全体へと吸収されるというアイデアを示している。愛は、肉体の分離意識では表現できない。魂の統一意識によって表現される自動的な状態が愛である。愛である魂が、次に意志である霊に瞑想を開始するとき、はじめて、「愛を込めて適用される活発で知的な目的である意志」を肉体という制約のなかで表現することが可能になる。

これらの認識のもとに、自由意志とか、自分の意志とか漠然と見なされてきた駆り立てる力について研究していただきたい。意志を正当な位置に引き戻していただきたい。そのとき自我である我々は意志を見る者である。まだ二元的であるが、それでも大きな解放を得たことを理解するはずである。なぜならそれは正しい流れであるから。神のこの潮流は、疑いなく神聖意識へと導く。自我意識の中に眠る我々から、神聖意識へ蘇る我々でなければならない。意志を見よ! そして意志を所有することの愚を知らねばならない。意志は所有できない。「私の意志」と呼ぶことは禁止されている。我々は自我ではない。我々に流れているのは、我々を生きるお方は、「私」ではない! この正しい知的で謙虚な見解で我々はものごとを見て、生じている世界というものを生きねばならない。これが真の明け渡しである。

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