エネルギー

瞑想と教育

瞑想は、日常の一瞬々々のうちにある。座って行うのも良いのだが、情緒の統御が完全となり、純粋な集中が容易になるにつれ、思考との同一化、つまり思考を「わたしの思考」として無意識かつ自動的に扱う眠りの状態から醒め、あらゆる感情に対する対処法がそうであったように、離れて見ることができるようになる。このとき、問題は思考というよりも、離れて見ている思考者そのものとなる。この観察している「わたし」という最終的な扉への対峙が、瞑想の主たる目的意志となるのである。なぜならば、思考から離れ立ち、見るとき、去来する思考が去り虚空が生じたかに見え、そのじつ、「わたし」という感覚だけは残っているからである。そのため「わたし」という感覚へ、焦点の踵を返すことがあらゆる否定の結果として必然となるのである。

現代において、瞑想を行う者はまだ少ない。たいてい、遊びの延長として軽々に扱われており、概して誤解を受けている。どのような動機で瞑想が行われているのだろうか。自分自身への正直さがひじょうに要となるのだが、正直さは、澄み切った鋭敏なマインドによってしか本当の意味で機能できない。なぜなら、自我は、思考の背後に隠れるからである。わたしたちは自我であり、自我として在り続けたいため、自分を欺して自分をかくまう思考の万華鏡に、一生おのれを遊ばせ眠らせているからである。簡単にいえば、思考が思考を捕まえることはできない。

要点は、自我の領域、マインドの領域にあるかぎり、すべてが錯覚だということである。それはリアリティーではない。感情がそうであったように、思考も真の自己とは無関係なのだ。この錯覚に真に気づくとき、瞑想は日常のすべてにおいて絶え間のないものとなる。瞑想の時間だけ、座ってしばらく行うという段階は終わりを迎えねばならなくなる。つねに離れ立っており、思考の誘引から自由でなければならない。あらゆる行動がおこなわれているさまを、ただ見るようになるだろう。「わたし」が行動しているという従来の催眠から目覚めていられるだろう。

われわれの多くは、まだ、感情すら統御できていない。そのため、人生が苦痛なのである。すべてはエネルギーであり、自分へ向けられたフォース(ある器を通して色付けられたエネルギー)をハートと目で捉え、見ることで即時に自由な幸福へと引き戻る技術を習得していない。これが「受け入れる」という技術である。それは赦しであり、愛である。すなわち、ハートと目を通して、真の自己のエネルギーが人間を保護するのである。どうしてわたしたちはこの保護を学ばないのだろうか。受験勉強に費やす時間をすべて内面の実在へと注ぐのであれば、どれだけ美しく自由な人生を享受できることだろうか。学業を否定するわけではないが、それは二の次にいずれはならなければならない。

人類の教育は、現状、分離主義に基づいており、比較と競争を促進し、葛藤と苦痛をたえまのないものに仕立て上げ、人間を無能の檻へと収監するための、世の中を操作しようとしている一部の物質的悪魔主義者の洗脳の道具としてしか機能していない。なんという絶望的な状況だろうか。みなが精神のなかで他人と争っている。このような原始的な精神の時代は去らねばならない。

新しい時代の教育は、瞑想でなくてはならない。瞑想なくして、どのようにして人は目覚めていられるというのだろうか。争い、傷つき、苦しみに涙を流すためにわたしたちは生きているわけではない。目を醒まし、自分の内部に向かい合い、世界という影響力からわれわれは自由にならなくてはならない。わたしたちが瞑想し、真理に至るとき、はじめて、生という神秘が神秘でなくなり、その意味と意義に圧倒され、はかりしれんばかりの美しさに驚嘆するだろう。すべての謎がみずからのうちで解き明かされるだろう。こうして、われわれの教育は知性を鍛えることから、知性を超えたところの唯一なる英知に向かうことになるだろう。




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