質問

祈りについて

引用された文章ですが、そこのみを切り取るとき、意味合いが違ってきます。またこのように、言葉や文章はほとんど無意味であり、一般社会でも、気の合う人間というものが、自身の意識段階と同レベルであることに依存しているように、この種のオカルト的な解説において、意識段階の差異を、文章を介して埋めることは無理なのです。文章を介したヒントから、最初は誤った観念から始まり、自身の瞑想によって知識や観念のまやかしに気づき、気づくことで想念形態のヴェールを剥ぎ、意識の深みに入ったときのみ、真の意味合いが理解され、その理解のなかで全ての調和を知るのです。

祈りとは何かをわたしの意識段階で語るとき、祈りのなかに個人的な情緒はありません。一般的には、祈る人間は情緒に飲まれており、祈る原因もまた情緒的なものです。いったい誰に祈っているのでしょうか。錯覚に陥っている魂が、魂である自身に祈っているのですが、この観念的構図を見るとき、祈りが届くとか、祈りの応答を掴み取るとか、疎通の通路というものを塞いでいる情緒や想念があってはなりません。したがってあの文脈において、通路を築き終えている人間、つまり書いてある通り、ある水準の弟子を前提としており、このとき、引っ付いていたものが引き離されるというのが祈りの即時の効能です。そして見えるようになるのです。

祈るとき、個人の無力さに対する諦念が前提であり、それゆえに祈るわけであって、これはいわゆる「明け渡し」と同等の意味です。つまり、自分ではどうにもならないから祈るのであれば、個人が介在してはならないということは理論上にも分かるかと思います。したがって個人が祈るとき、整列のテクニックや通路の建築が済んでいない場合、効果は分からず、いわゆる神頼みという涙めいた盲目の祈りに近しくなります。

そして祈りと神頼みは、人間と動物くらい知的に差異があります。前者は直接的かつ即時、なおかつブッディ的に知的であり祈りの工程に完全に意識的な状態にして無執着であり、後者は純粋にアストラル的で無知、内的な世界における祈りの意味合いに不可視かつ無意識にして執着的な状態です。

したがって結論を言えば、あの文脈で書いた祈りを、純粋な個人意識しか今のところ知覚していない個我が、個我ゆえの苦悩に対して適用しようとすることは不可能です。段階があり、個我の苦悩については、亻(にんべん)に固まると書いてある個の意味を個人が知り、その軛とはいったい何なのか、個を構成している要素に対する隷従からの脱却、要素に対する逆に意識的な統御というものを、祈りに他ならない瞑想のなかで習得することで、「私の/苦痛」と分断して表現しなくなり、それらが同じものであること、逃げられないこと、したがって「わたし」という意識そのものに集中が向けられ、それは見られて終わるのです。面白いことに、引っ付いているとき、自我は分断して表現し、自分をめくらましにかけるのです。

質問をコメント欄を通したくない場合、こちらのCONTACTからできます。直接会う必要を感じているのは誰でしょうか。個人は議論を好みますが、瞑想や霊性においては言語・観念は荷物です。わたしと会うことはできますが、議論も話もないでしょう。もしわたしが何か「感銘」を与えるような人間だったとき、個人は分離意識であるため依存し、権威化してしまうことで本筋から外れるのです。何事もですが、全ての分野の何かしらの第一人者、開拓者、革命者というものは、意識が新鮮でなくてはなりません。それは何かのコピーでは到達できない意識なのです。自分で見出すしかない険しいが新しい初めての道であり、頼りになるのもまた自分であり、つまり内部にいる生命である一者、あなたそのものである存在が、瞑想を通して道を照らし出してくれるのです。瞑想に向かい続けなくてはなりません。個人が、個人に会いに行く必要はありません。どの道にいっているのですか。「道を辿る前に道そのものでなくてはならない」というオカルトの決まり文句が裏切ることはないでしょう。

コメント

  • コメント (0)

  • トラックバックは利用できません。

  1. この記事へのコメントはありません。

CAPTCHA


最近の記事

アーカイブ

PAGE TOP