存在

神の臨在

もしも我々が、どうしても行為者の感覚から離脱できず、自分が行為しているとしか思えないならば、別の方法がある。一つは、全ての行為は自分のためではなく、神のために行うものであると考えること。もう一つは、神ご自身が神ご自身のために、我々の身体を通して全ての行為をなさっていると考えることである。これは第六光線の弟子がしばしば使用するテクニックであるが、どの光線の弟子も、その背後にある意義を知るならば上手く活用することができる。当然ながら、神という概念は、各々の精神にしたがって、崇拝できる他の個人や存在に入れ替えることができる。

なぜこの訓練が重要であるのか。我々は瞑想するが、瞑想中の大半を空想に費やし、瞑想が終われば残りの時間は全て個人的なものになるからである。何十年と瞑想を続けて進歩のない弟子はここに気づかねばならない。ただ自分のために生きてきたのである。しかし進歩した方々は、例外なく、ヘラクレス的な意志力で個人の安楽と妥協を拒まれた。自分のためではなく、全ての人のために真理へ生きる決意を曲げず、逆境と困難に進んで耐え、痛みと苦しみの道をあえて歩まれたことを知らねばならない。仕方のない事とはいえ、初心者はこれを知らないため、諦めがはやい。落ち込みや自己憐憫に逃げやすい。困難に大げさに反応する。しかし、そのような保育的な精神では誰の助けにもなれないのである。

そこで、我々は神の力と助けを願い出ることが許されている。例えば、弟子はキリストが偏在であることを理論的には認めている。そのため、仕事をしているとき、キリストが仕事をしていると考えるべきである。話しているとき、キリストがキリストに話していることを感じるべきである。明日は休みだから飲み屋に寄って帰ろうと思うとき、キリストがそう考えていると信じるべきである。すると、そのような欲望や習慣への引力が消え去ることを知るだろう。なぜなら、キリストがそのような低級な欲望を神聖な愛で浄化されるからである。これを一度でも体験するならば、キリストへの信頼感がぐっと高まる。なぜなら、自分では絶対に出来なかったことが出来るようになるからである。そして、本当に力が与えられたことを知るのである。すると感謝の気持ちが生まれ、もっとキリストのために正しく生きようと思うようになる。家に帰って家族から侮辱されたとする。許せない気持ちや怒りが沸き起こるが、それを感じているのはキリストであり、侮辱の言葉もキリストによって何かしらの学びを与えるためにささやかれたのだと考えるべきである。そして、実際はキリストであられる他人を変えようなどという低級な思いを諦めて、動揺しやすく弱い精神をキリストのために鍛えようと決意すべきである。キリストへの信が強ければ、キリストは信じる者に力を与えられる。それを繰り返し感じるたびに、本当にキリストと常に共にあるのだという臨在感覚が育まれるのである。

これは自己暗示ではない。瞑想が熟達したとき、実際に神の臨在を体験するのである。それをまだ感じないうちに、将来知られることになる事実を今から知るための試みである。道は一人で歩むのではない。必ず師の臨在のもとにあるのである。それを知るならば、間違いなく、献身する方は力を与えてくださる。すると、まだ自分には見えも感じもしないが、神がここには本当におられ、本当は神であることをまだ分からない自我である私を絶えず見守り支えてくださっていることを知るのである。心が軽やかになるだろう。これも神の力である。どのようなことも神なしには起こりえないことを確信するだろう。そして、すべては神であり、神は私であるとの確信へ我々を導くのである。

あとは、一日に何回、本当にこれを思い出すことができるかである。一日に一回でもいいのである。始めることが何よりも大切なのである。

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