治療

精神の病はいかにして治癒しうるか

増え続ける精神の病に対する無能

現代の精神医学は、多種多様の病状に対し、事細かに病名をつけることで分類し、対処を試みている。治療へのアプローチや手法は、薬剤にとどまらず、広く、また実験的に行われているが、根本的治癒に至る患者は驚くほど少ない。

私たちにとって病は死活問題だが、身近に存在する医療機関は必ずしもそうではない。一時的な助けになりはしても、大局的に見るかぎり、問題をより大きくし、解決を先のばしにしている。弊害の多い薬を売りつづけ、良心の呵責をいとわぬ皮膚の厚さと金銭を獲得し、自身が精神の病に対してなす術はほとんどないという自認を外へ向けて発信することはない。こうして患者は被害者となり、歳月をまたぐごと薬物の奴隷となり、焦燥感と絶望感に駆られ、果てはどうしてよいのか分からなくなる。

この惨状は、医者や癒やし手が、患者の苦しみに対する共感の能力を高めることで、金儲けをいったん脇に置き、本来の責務に純粋になって、自らと、自ら信じてきた知識へ疑問を投げかける勇気を奮い立たせぬかぎり、今後も続くだろう。西洋医学は、精神の病を治癒することに不向きである。現状、心理学ないしカウンセリングも、アカデミックな主張や見解、用語と技術論でしか受け答えができず、一人ひとりに対し、より即した向きあいの姿勢は医療機関より優れているとはいえ、カウンセラー自身が多くの場合、自分の問題すら解決できない普通の人間であるため、患者がその場かぎりではなく、根本的に治癒していく事例というものはきわめて少ない。

問題はシンプルだが解決するのは自分

あらゆる心理的な病の解決は、極端に重篤な患者を除き、シンプルである。学術的、心理学的な、複雑を装う知識や理論はいずれも不要としか言いようがない。それらは慰めを提供するだけであり、問題の本質から目を背けさせる道具としては多少機能しうる程度にとどまる。

どのような名称で呼ばれているかに関わらず、精神の病であるかぎり、大元である精神を見ないことには始まらない。枝葉でしかない、発症している病の一つひとつに注目をそそいでも、病状がそのぶん悪化するだけである。また、いくつもの病を併発することにつながる可能性を高めてしまうことになる。

私たちが見るのは、自分自身の内部だけでよい。私たちは、医者や学者といった権威に問題究明の責務を押しつけることで、自らのメンタル的な怠惰を助長し、自ら解決する能力というものを放棄しつづけている。他人の助けが必要な時期はあっても、他人が治してくれると思わないほうがよい。すべては、症状そのものの感覚を自分で離れて見る、という技術の習得にかかっている。このとき、すべての症状から保護された自分と、身体や精神に生じている病気というものが、隔絶される。隔絶されるとき、病気というものは、人間の抵抗という養分を失うため、死なざるをえないのである。この繰り返しが完全な治癒をもたらす。

場面緘黙症の方の事例

今回、場面緘黙症の方について書く予定だったが、前置きが長くならざるをえず、記事の趣旨が多少変わった。場面緘黙症の人は、家族との会話に支障はないが、学校や職場など、特定の社会状況にあって何も話せなくなる。このとき、一般的な反応は、何かを話さないといけない、という恐怖と混乱である。相手に迷惑がかかっている、皆に変な人だと思われてしまう、こうした恐れが人間を完全に支配してしまう。そして人間は、そこから抜けだそうともがく。この抵抗が問題にエネルギーを注ぐことになり、病状をより強固なものにしてしまう

会社で誰かに話しかけられ、声が出ず、固まってしまったとしよう。この場合、相手は無視してよい。あとで、自分が場面緘黙症だという旨を手紙なりで伝えれば事足りる。他人にどう思われ、どんな陰口を叩かれるかは、自己の内部に通ずる限り問題ではなくなる。今の自分にとって、きわめて関係のないことであるため、後回しでよい。

声が出なくなったとき、私たちにチャンスが訪れる。その症状を、感覚として、ありのままに見てみる機会に恵まれるのだ。襲い来る恐怖や、こわばった自分というものを、抵抗なしに、つまり、ありのままの自分から逃れようとするのでなく、その感覚にむしろ共存することで、即座に対象は養分を失い障害ではなくなる。声は出る。問題が呆気なく解決していることを知る。この感覚を掴むことが肝要である。

難しく考える必要はないが、いきなり出来るものでもない。観察する習慣が必要なのだ。どういうときに、なぜ、この反応が起きたか、つねに見る必要がある。なぜなら、知らないうちにまた支配されるからである。このとき、自分はダメであるとか、全く回復できないとか、去来する思考についても同様に冷静に見ることができるだろうか。しかし見ることが全てなのだ。見ることによってのみ、対象と自分を切り離すことが出来る。この繰り返しにより、真剣さの度合いに比例して、思ったより早く、問題が問題ではなくなるだろう。

たとえ、場面緘黙の症状が出たとしても、私たちに出来るのは、それを見ることだけである。それは、対象を嫌がることをやめ、回復したいという思考の反応さえ恐れが生み出した見るべき対象とし、また対象がそれそのものであることを良しとし(なぜなら人間に変える力はない)、その症状を見てみようという興味心、そしてありのままの受容があり、対象との共存がある。この瞬間、私たちは対象が瞬時に消えて無くなるのを見るだけである。問題による苦痛が大きければ大きいほど、このような障害が消えたときの内部の多幸感は強烈なものとなる。それは何か外部の満足を手に入れたときの幸福感とは違う、本来備わっている内的幸福である。やがてこの感覚への集中が容易になり、自分が外部から害を受けないという精神の異質性に安住できるようになる。そのとき、精神の病は根絶されるのである。




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