存在

統一

自我は長いあいだ、魂を妨害し、低位の欲求を食することで快楽を感じ、それら諸欲を養分として生き延びてきた。面白いことに、輪廻の終盤において、自我の快楽の定義が変わる。苦痛の定義も変わる。これまで魂を妨害することで快楽を得てきたが、この妨害が苦痛になるのである。また妨害しているのが明確に自分であることに気づくゆえ、自主的に静かになろうと試みはじめる。このとき自我において、魂の愛と至福が唯一の快楽になる。それ以外は全て苦痛と感じる。この結果、進化の終盤は加速を得る。主従が逆転する。自我は魂の楽園を知り、居住し続ける権利を希求する。そのためには自我である自らの死を喜んで捧げることを誓い、魂への献身と忠誠を、身を切る「血の供物」を捧げることで示すようになる。

道そのものとなる

自我は、このようにして魂に”侵食”される。このとき発達する感覚が、自分がただの通路であるというものである。この意識に至ったとき、生の重荷から解放される。聖者方の表現で言えば、「行為者の感覚」からの自由である。彼は撤退する。”差し出がましい自我”として機能するのではなく、動きを慎むことを覚え、現象の背後に退くすべを体得するようになる。これは流入と流出という観点から、強力な進歩を促すことになる。滞りの除去である。彼は自らのエーテル体内における七つのフォース・センターつまりチャクラを発達させてきたが、いまや自分自身が惑星内における一つのより大きなフォース・センターにすぎないことに気づいている。つまり通路である。

大いなる破壊

彼は行うことをしなくなる。行為を観る者へと収まり、人間という一つのセンターが、通路が、正しく流入と流出を行うさまを眺める。あえて重荷を背負い行為者を主張してきた苦しみの自我が、今まさに去りつつあることを知る。役目が終わったのである。錯覚にも意味があったのである。錯覚のなかで苦闘し、その苦闘によって今、ひとつの統一体がみごとな光体へと完成したのである。長い、長い、幻想の周期は終わり、カルマや輪廻は法則ではなくなり、真のお迎え、真の破壊者が来たことを理解する。意識は変わりゆく。静寂が飲み込みゆく。一切の感傷もなく、さよならである。自分の肉体活動、自分の感情、自分の思考、自分という感覚、これらはすべて無くなった。複雑だったものはすべて単純になった。あるのはただ生命である。

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