瞑想

職場の人間関係について

こちらの質問に対する記事です。

職場であれ、学校であれ、田舎の近所付き合いであれ、
熟慮を重ねた結果、自分の考えが正しいと判断したのであれば、
はっきりと相手にそのことを伝えてやるという愛が必要ではないでしょうか。

愛は、恋愛や親子愛のような情愛ではなく、

相手を理解することによる共感
次に相手の反応に対する同情
そして理解、共感、同情から、自分の痛みを忘れるという忘我
これが必然的にを伴わせるのではないでしょうか。

「無私の愛」であり、
これが多少なりとも機能しうるには、文字通り、
自分という感覚を失っている精神が必要です。

情緒からの自由

この精神は、自分がいかなるものからも影響を受けない状態であるため、一般的に困難です。
わたしたちは、怒りや悲しみといった感情に、いともたやすく結合してしまうのです。

感情から離れて立ち、感情が自分に影響を与えることのできない、
保護された幸福な安らぎと限りなく静かで平和な感覚をわたしたちは知らない
のです。

また、すべての前提が、相手への理解であり、
理解するためには、ここでも精神が感情から自由でなくてはなりません。

なぜなら、怒りや苦痛といった情緒感覚を統御して、
それらに反応しない精神の静謐が、確固たるものにならないかぎり、
自分の感情が邪魔をしてしまい、感情に自分が動かされるという奴隷状態になるからです。

このようなわけで、人間関係というものが困難であるとされています。
そして、相手を責める、という無駄な錯覚に自分をおとしめてしまうのです。

問題はない、あるとすれば自分の中のみ

以上から明白な通り、すべては精神の問題です。
寝ているとき、あなたは相手のことに思い煩わされることはありません。
朝起きたとき、相手のことを思い出すのです。

世界は、精神なしには存在できません。
少なくとも、あなたは精神があるときのみ、世界を知覚するのです。

精神、ここでは自我意識といったほうがいいでしょうか。
自我意識は、わたしとあの人、といった分離した意識であり、
これは精神のなかでしか存在できない意識の錯覚です。

わたしたちは、相手から逃れてどこへ行こうとも、
「わたし」という自我意識がついてきます。

あるいは、物理的に相手をどうにかしようとも、
また新しい苦手な人間が人生のなかに登場して、
「わたし」という自我意識のまま、同じ腹立たしい状況を繰り返すことになります。

自我を超越しないことには、つねに「わたし」であり、同じ物語が続きます。
「わたし」が変化しないかぎり、「わたし」の投影でしかない世界は変わりません。

この明白な現実に勇気をもって直面するとき、
人は他人ではなく、自分に目を向け始めるのです。
これが瞑想と呼ばれるものです。

瞑想という科学

瞑想は、宗教的なものでも、座って行う苦行でもなく、
外へ向かっていた目を、内に向きなおすことにほかなりません。

1. 瞑想により、人は情緒や感情といった錯覚を克服します。
たとえば、あなたは相手から傷を受けることがなくなり、
相手がなぜそのような反応をしたのかが分かるため、
共感し、同情が生まれ、自分はもはや問題ではないため、
相手への愛だけが存在するのです。

2. 瞑想により、人は思考という錯覚を克服します。
すべては観念です。知識も、見ている世界も、すべて精神ゆえの曲解です。

情緒がしずまり、思考の働きがとまり、「わたし」という感覚に集中が深まるとき、最後に精神は超越されるのです。わたしとあの人といった、二元的な、自我の分離意識はなくなるのです(十の基本命題を参照)。

結論

  1. 問題は自分によって作られている。
  2. 相手のことより、自分とは何か、という問題が問題になる。
  3. これが瞑想である。
  4. 瞑想により肉体、情緒、思考が統御される。
  5. この静けさが魂との接触を可能にする。
  6. 肉体・情緒体・メンタル体で構成される自我意識は、魂と自分という二重性に苦しむ。
  7. 瞑想により魂が優位となり、最終的に個人は魂の中に消え去る。
  8. 人間は世界に生きる魂になり、霊(モナド)に反応できるようになるが、これ以上の話はすべて言葉の制限上、無意味である。

私たちは、4の半ばから後半において、心理的な何からも影響を受けなくなり始めます
自分に感心がなくなるため、感受性が高まり、
分離感覚が薄れはじめて、相手の苦しみが自分ごとのように感じられはじめます。

このとき、あなたは人間関係において問題を感じることがなくなるでしょう。
情緒や思考から切り離されて、静かな背後の世界、原因の世界から、
エネルギーとフォースの理解へいたり、
これらの操作がすべてとなり、その必然が、あなたの見ている結果の世界にあらわれるのをただ見るでしょう。
もはやあなたは、感情や思考の奴隷ではなくなります。

わたしの回答は、おそらく途方もないものに受け取られるかもしれませんが、
経験を重ねることで、確かな間違いが自分のなかで理解され、否定されゆくとき、
結局はこのような道を辿らざるをえなくなるのです。

そして問題は問題でなくなり、自由になって、あなたは人々のなかで、
傷つく側ではなく、癒やしの治癒を与える側へと回ることになるのです。




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コメント

  • コメント (2)

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    • Victoria
    • 2018年 12月 07日

    ありがとうございます😢
    読んだだけですが、なぜか心が軽くなったような気がします。最後『結果』にまとめてくださったことで、よりわかりやすく、頭にインプットされました。
    私の情緒はいつのまにか“相手を責める”状態になっていたと思います。理解するためには愛も必要です。
    しかし場合によっては、ただ相手にとって都合の良い人になることはないでしょうか。どんな性格にも左右されず理解できる人になった時、相手に「この人はなんでもわかってくれるし、合わせてくれるし、私はこのままでいっか」という甘えが生じるのではないかなど😢…私の考えすぎですかね。冒頭で“相手に伝えることも愛”とありましたが、現実、上司への想いのぶつけ方が分かりません。相手もそれを受け入れる余裕はないはずです。きっと反論されます。
    なるべく関わらないようにという逃げに走ってしまいがちでしたが、この記事で教えてくださっている事を深く理解し、行動出来るよう意識しながら今日もお仕事行って参ります。本当にありがとうございます。

      • Author
      • 2018年 12月 07日

      冒頭に書いた通り、はっきりと相手に注意の理解を促しますから、
      相手にとって都合の良い人にならないでしょう。
      むしろ、相手は自分のことを考えさせられるようになるでしょう。

      相手を理解するとき、それは、相手のわがままを何でも許すという無能を意味してはいません。そうであるならば、それは理解と言うよりむしろ、知性の著しい欠如を示していることになります。

      理解とは、その人の良いところ悪いところ、すべてを含めて、
      なにが相手にそのような振る舞いをさせるのか、
      その背景を知るということです。

      このとき、相手はただ条件付けられているだけであり、
      したがって感情と想念の被害者であることが分かると思います。

      相手は、心が平和でなく、苦しんでいるので、
      そのような思いやりのない言動を条件付けられているのです。

      このように理解へ至るためには、
      自分の腹立たしさが、いったん脇にのけられていないと難しいのです。

      そのため、他人を正しくしようと思うのであれば、
      自分がまず正しくならないといけない、という結論になります。

      ただし、いきなりは何事もできないので、
      はっきりと相手に物事を言うとき、
      反論されようが、怒られようが、
      自分が間違っていたならその間違いを見て謝罪し、
      そうでないならば、相手からの攻撃に対する自分の条件付けられた反応を見てください。

      責められたときに、自分の苦しい感覚から逃げるのではなく、
      その感覚とともに在ってください。

      慣れると、何の影響も受けなくなりますので、
      自分のことよりも、相手への心配が大きくなります。

      結果的に、その愛と、智恵に裏付けられた粘り強い行動で、
      相手はあなたによって癒やされるでしょう。

      とにかく、分からないことがあれば聞いてください。
      うやむやにすると、解決を延期するだけの一生になってしまいます。

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