一般生活

肉体

瞑想と学習を嗜みながら、まだ、肉体を自分と見なし生きている兄弟がいる。そのため、肉体である自分の生涯をひどく重要視しているのである。しかし人生は短い。時間という観点からすれば、多くを成し遂げるにはあまりに短い。今生で悟ろうと思っている自我もいる。そのような思いが障害であることも忘れて。肉体の死を見て、ラマナ・マハリシは自己を探究せざるをえなかった。我々は死人を見て、葬儀を執り行い、しばし厳粛な思いに浸ったのち、また明日のために食べるだけである。肉体の死は慣れ親しんだものであり、病気や老いによって死に直面するまでは他人事である。死とはなにか、生きるとはなにか、真剣に考えたいものである。

昨日、姉妹の一人がパラマハンサ・ヨガナンダの本を読んだと言った。ある不食の女性がいた。彼女に不食の方法を聞いても教えなかった。なぜ貴女だけ不食の方法を教えられたのかと人々は問うた。彼女は答えた。「私たちが肉体ではなく霊であることを証明するためです」。聞いた話だからどこまで正確な描写であるかは分からないが、重要なのは内容である。

諜報機関の兄弟たちは、他国の転覆のために、洗脳に最も長い年月を費やす。いったん洗脳が世代の常識となるや、黒を黒、白を白と証明しても信じない。つまり、信じたくないのである。自我を構成する重要なピースを抜かれることは恐怖なのである。こうなると国はほとんど終わりである。我々はどうだろうか。肉体を自分として生きている兄弟たちも、理論的には自分が肉体ではないと主張しても、真剣に霊や魂として生きることはない。つまり、自我として生きたいのである。この肉体が自分でなくなると困るのである。毎日、毎瞬、この肉体は私だと我々は叫び、自らを洗脳し続けている。やがて死期が訪れたとき、なぜあの時、本気で霊や魂を求めなかったのかと、悔やむような我々になってほしくはない。

以上から、我々は才能や天分を云々すると言うより、単に不真面目、真剣さに欠けていたことを理解するのである。それは自我として、これまでは物質的なものを求めてきたが、これからは霊的なものを求めようと言っているだけであり、主体はいまだ肉体である私である。これを許してはならない。肉体は我々ではない。そのように断固として生きることを選択するだろうか。誰も強制していない。あなたは選ぶのかということである。選んだからには無自覚には生きれない。きつい道になるだろう。これまでのように逃げてはいられない。どのようなときも、自分が霊であり魂であることを証明し続けねばならないのだから。

これが秘訣である。これが真剣さであり、明け渡しである。このように生きて、どうして魂が、霊が、我々を見放すことがありえるだろうか。これは努力の道ですらない。完全に自発的な道であり、真実へ生きてみようという自我の喜びの決意である。肉体は我々ではない。またアストラル体も、メンタル体も我々ではない。やがて、魂の支配下にこれら諸体は落ちる。そのとき、ヨガナンダの本の女性ではないが、我々に超人的とか、超常的なものなど何一つないはずである。全てが霊において、魂において、自然なことであると思うのである。我々は肉体にあらず。本物を求めよ。我らが内に、瞑想を通して真実を求め続けよ。全ての兄弟姉妹が引き上げられるまで、我々は絶対に諦めないだろう。そのような意志が、我々を通して生きる実在なのである。

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