自殺

自殺に追い込まれる個人

これが問題だ、これが分からない、これが苦痛だと、終わることなく個人が自分をいじめる。あえて複雑化する必要はないが、個人はそのような状態を好む。それは娯楽や快楽でストレスを解消する平均的な人々としていること自体は同じである。もし賢明さが導き手として訪れうるならば、個人は押し黙り、おのれであることに謙虚になり、内なる存在を求めてただ静けさへと没頭するだろう。いかなる複雑化もより高位の意識においては存在しない。知性は置き去りにされる。メンタル界の低位亜界は克服され、精製を得て通路(アンターカラナ)は純粋で明確なものとなり、妨げられることなく透き通った光が個人の闇を追い散らしてくれる。なぜ、わざわざ個人に帰る必要があるだろうか。この帰還は個人にとっての常識であり習慣となっているが、じっさい、最も疑うべき余地のある危険な中毒的思い込みである。これは、「わたしが瞑想をする」という誤った考え方に基づいているため起こりうることである。じっさいは、唯一なるものが存在するだけであり、どのような個人も、どのような帰る場所も存在していない。目が見えていれば、すべては一なる生命である。政治や社会、幸福や満足、手と手のつながりが、個人であることの不安や危険から守るということはない。いかなる盲目的な外的注視も個人を危険に追い込む。最終的に個人には手に負えなくなり、通常は痛みが内側へと意識を引き戻すことになるが、逃避が続くのであれば、ケジメとしては自殺しか手段がなくなるという、個人という思い込みの被害がもたらす悲惨なケースは第一段階や第二段階のイニシエートにとっては多いにありうる。アリス・ベイリーの著書を通して、いわゆる敷居の従者に圧倒されて自殺に追い込まれる弟子たちが珍しくないことを、チベット人も語っている。これは一般的な人間にはまだ理解も感知もできない内的な深い闇である。教訓の要点は、意識の焦点と習慣を、どちらの側に決意を持って置くのか明確にしなさいというものである。これ以上、何の経験がいるだろうか。どれだけの痛みを求めるだろうか。経験への渇望という罠は謙虚に回避されねばならない。個人は大いなる生け贄であり、儀式にして司祭である瞑想を通して勇気を鼓舞され、真我のなかでみずからを供物として捧げることだけが、長きにわたる巡礼と歩みのなかでの究極的な栄光であることに、いつであれ変わりはない。

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