自殺

自殺をする前に

もしそれが、深刻のように思えるだけのものであれば、助かりはしないだろうか。あなたの仰る世界、その世界があなたに与えている惨たらしい幾つかの出来事、これらの影響から自由になることができるならば、少なくとも問題と感じることは難しくなるだろう。自由であるとき、われわれはつねに大いなるものの抱擁のうちにあり、その愛は知的にあなたの錯覚を破壊し、あるがままのものを美と至福のなかで見せる。

誤った自己は恐怖を養分と見なすことを忘れてはならない。偽物と分かっていながら人々はお化け屋敷に入るが、いかなるスリルも恐怖も、「これは現実ではない」という、一つの確固たる安心の柱を拠り所にしている。そこで殺される人も、自殺する人もいない。恐ろしい世界から、笑いさざめく人々の世界、日の光の差す日常の世界に帰っていく。

われわれに欠けているのは拠り所となる柱である。それは真の自己であり、偽の自己の運命から影響を受けることがない。すべてのものは一つの意志の小さな部分として運命を全うするだろう。比較的無意味な個人の物語に入り込むならば、それはひとりで地獄を味わう覚悟をしておいたほうがいい。もし抜け出せずにいるのなら、われわれには学習と瞑想の機会が与えられている。

瞑想は何も要求しないだろう。お金や特権、幸福や知識は邪魔になる。真に瞑想に向いている人間は、舞い上がった経験がいずれ提供する地獄の季節を幾度となく通過してきている。そのため、もう経験はいらないと言える状態にある。いわば、個人の末期症状がこうして始まる。それは必然的に個人的なものの理解による放棄を伴うため、邪魔していた錯覚のいくつかを容易に貫通し、意識のレベルを引き上げることに成功する。そして、大なり小なり、真我の恩恵を受けるようになる。あなたは真の意味で幸福になり、肉体を傷つける必要がなくなる。

今のところ、物質界を支配している低位のフォースが強大であるため、一般大衆は思考を奪い取られ、成熟の機会が遅々として実にならず、個人として生きるにはあまりに恐ろしい世界を無防備にふらついている。そのため、致命的な打撃が人生を襲う定期的なイベントにそのつど動揺し、恐怖に駆られ、その世界が唯一であるとの思い込みの結果、絶望し、しばしば自殺を余儀なくされている。もし、この世界にいながら、無防備を打ち消す純粋な装備を内に求めるなら、それはすぐに見つかるだろう。目は見えるようになり、感覚は美しいものしか捉えることなく、世にあって天の富を享受する。このような事実をわれわれは早々に通過し、地獄に打ちひしがれている兄弟姉妹の助けになる側へと移行すべきである。

コメント

  • コメント (2)

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    • まさ
    • 2019年 4月 22日

    タイトルにひかれて読みました。初コメです。

    読んでみてですが、早々に通過したり、内にすぐに何も発見できないから、私含めみなさん苦しんでいると思いました。
    学習と瞑想と言っても、何を学習してどういう瞑想をすればいいのでしょう?
    ですので、どういう学習と瞑想のことを指しているのか具体的に教えてもらえないでしょうか?

    私はただ苦しいまま生きているだけで精一杯のままずるずると中年を迎えてしまいました。
    出来ることなら自分を克服したいと思っています。
    ですが、近い将来に自殺することになるんだろうな、という気持ちの方が現実で言うと切実で、半分はもうほぼほぼ諦めている感じになってきてます。

    • Author
    • 2019年 4月 22日

    記事にて返信しています。続けての質問、掘り下げはご遠慮なく。ただし、いくつか質問がたまっており、遅くなる場合はご容赦ください。

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